2006年6月 2日 (金)

ニーゼン山

Niezen_1  ニーゼンは、標高約2360mでアルプスでは際だって高い山ではないが、近くに高い山がなくその美しさから親しまれている。地方線鉄道のミュレネン駅から登山道も整備されており、ケーブルカーで山頂近くまで登ることもできるそうだ。

 クレーもこの山をとても愛しており幾度も絵に描いてきた。啄木風に言えば「故郷の山に向ひて言ふことなし故郷の山は有り難きかな」と言ったところだろうか。クレーの最大級の作品「パルナッソスへ」のピラミッドをも連想させる山の形は、いかにも彼らしいと思ったが、ニーゼンは実際にこういう幾何学的な三角形をしているのを後日知って驚いた。
 とはいえ、この絵も現実の風景をそのまま写し取ったものではない。モザイクのような森が山を讃える舞台のように手前におかれ、天空には月星霜と同時に太陽(しかも複数?)も並んでのぼる。虚空にそびえるニーゼンは、あらゆる時間の森羅万象を幾重にも重ねて映し出す鏡のごとくである。

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2006年5月20日 (土)

この星は謙遜を知っている

Dieser_stern_lehrt_beugen  「我アルカディアにもあり」死のみはどんな人間にも平等に訪れる。肉体や物質的な栄華を誇るものも、死の前では無力である。死は絵画において最も重要な主題として、繰り返し描かれた。死の図像は、それを忘れている人間の愚かさへの警鐘であり、死神はいつも皮肉っぽい笑みを浮かべて現れる。

 しかし、最晩年のクレーが描く死の静謐さと厳粛さはどうだろう。クレーの魂は、肉体が滅びた後祝福されるでもなく、逆に裁かれるでもなく、冷静に、私たちの感知し得ない場所への旅だちを受け入れているかのように見える。皮膚硬化症もナチスの迫害も、そして目前の死ももはやクレーを取り乱させることはできない。

 彼岸の闇よりも底深いマリンブルーの世界に、死者を導くような星が(この星は「星の天使」のあの星が役割を変えたものだ)輝き、天空から断固とした筆遣いで1本の棒が突き降ろされる。旅行くものは無言でそれに従い身をかがめる。そこには、何億人もが引き受けてきた死という務めに対するクレーの謙虚さが感じられる。誰の死であれ、此岸のものが人の死を評価する傲慢さとは無縁だ。

 しかし、言葉をどんなに重ねても、この絵の力につりあった解説をすることはできないだろう。簡潔な線描でしか語れないものをこの絵は教えているのである。

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2006年5月19日 (金)

まだ手探りしている天使

Angel_still_groping  クレーは生涯で49点の天使像を描いているが、そのうち実に33点が死の直前に製作されている。それらは従来のキリスト教芸術とは異なる立場で描かれており、ルネッサンス期で確立された様式は無視されている。しかも、クレーの描いた天使は、ガブリエルとか立派に名前のついた天使ではなく、「まだ……な天使」という題名の多さからも分かるように、人間の匂いが抜けきらない半人前の天使たちである。クレーにとって天使とは、此岸と彼岸との仲介人、あるいは地上と天上との間で葛藤する魂の視覚的具体化であった。その中途半端さゆえに親しみを覚えるのは、私がクリスチャンでないためだけだろうか。

 誤解のないように言っておくと、私は宗教的啓蒙を一義としたルネッサンスの絵も大好きで、ジョットやフラ・アンジェリコ(「天使のような」という名前!)の天使像にも陶酔してしまう。

 さて、クレーの天使像の中でも「まだ手探りしている天使」以上に悲劇的なものはない。瞳のない眼は空ろで、前のめりになった体は今にもつんのめって倒れてしまいそう。体に被せられた暴力的な筆使いが、出口が見えず掻き乱された天使の心を表すようで痛々しい。それでもこの天使は、手と指を突っ張らせて懸命に光を求めようとする。私たちは、ときとして天使の姿に自分の姿を重ねあわせているのに気づく。傷だらけになってもなお光を求めずには生きられない、そこにこそ人間の哀しさがあり、美しさがあるのだと思う。

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アラブの歌

Leadonarab  最近この絵がとても気になるようになった。
 
クレーが色彩表現に決定的な影響を受けた北アフリカの思い出から描いた作品と言われる。ジュートの粗い生の手触りが、切り詰めた表現に不思議な奥行きをもたらしている。
 女性の視線以外はいろんなイメージが重なり、前景の植物は衣装に描かれた模様のようにも見えるし、全体がブルカで隠された女性の本当の表情の用にも見える。

 そして、これはもちろん私の主観にすぎないのだが、21世紀に侵略されたアフガンやイラクの女性たちが耐えている哀しみの表情をどうしても連想してしまう。

 あなたはどうだろうか。

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ティンパニー奏者

Drummer_1  「ティンパニー奏者」の絵の大きさは、たかだか15インチモニターの大きさに満たない。しかし、その力強さは物理的なサイズを忘れさせる。黒色の太い線描は「エイドラ・クナイェロス」よりさらに凝縮された。太鼓の撥と一体になった腕は、鼓手というよりまるで鬼のこん棒のようで、目の前のものを叩き壊そうとしているかのようだ。上下に荒々しく置かれた赤色に、私は燃え盛る生命の火を連想する。
 それでもなお、絵に濃厚に付きまとう死のイメージに私たちはたじろぐ。しかし、鼓手は一つになった目を見開いて行く先を凝視する。クレーは、晩年の3年間病気と迫害に苦しみながら、常に自己を客観的に見つめ目標を失わなかった。その芸術と人生の壮大なフィナーレを飾るのが、この鼓手の役割である。そしてその眼差しは彼岸を超え、私たちまで届く普遍性を勝ち得ているのだ。

 A・ケーガンは、1935年から45年の10年間の絵画芸術のうち力量、革新性、大胆さにおいてこの作品に比肩するものはない、と述べている。

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エイドラ・クナイェロス,かつてのティンパニー奏者

Knauhros

 クレーは亡くなる半年前、「エイドラ」という標題で、彼が愛して止まぬ故人たちを素描画として連作した。主に音楽家が多い。この作品もそのひとつで、ドレスデン交響楽団の鼓手が描かれているという。死をすでに受け入れたクレーが、彼岸に住む懐かしい人々を改めて思い起こしていたことが胸を打つ。この時期の簡潔な表現は、クレーが線描の自立性と力について語った「創造上の信条告白(1920)」の言葉を思い起こさせる。

「さあ、人間よ!一度空気を換えるように視点を換え、灰色の現実の日々へとやむを得ず帰っていくために切り替えの力となるような世界の中に身を置いてみる、このような芸術という保養地の真価を認めようではないか。
 …………(中略)
 簡潔でしかも多様多岐な線描芸術のように、広い大河を渡り、また魅力的な小川を通って、この励ましの大洋へとわが身を運んでいくのだ。」

 だが、この絵の魅力は技量の成熟や回顧主義にとどまらない。体を折らんばかりに太鼓を打ちつづける鼓手が届けようとしている音は、彼自身の生も死も乗り越えて、次の世代までをも揺さぶろうとしている。この時期「自分が太鼓を叩いているような気がする」と語ったクレーは、彼が駆け抜けてきた道を次代に引き継ぐため、残り僅かな時間を燃焼させようとした。それは、油彩の「ティンパニー奏者」で頂点に達する。

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鷲もいて

Mitdemadler_2 オレンジ色を基調とした美しい色彩にまず惹かれる。針葉樹林を思わせる景色の中央に屹立する眼。私たちの視線もここに集中するのだが、この眼は見る者の心によって様々に表情を変えていく。その点で、優れた仏像にも似ているかもしれない。すべてを知っている眼だ。
 少し余裕を持って当たりを見回すと、手前に1頭の鹿と、3人の人物が見つかる。鹿が小さいなりに堂々と立っているのに比べ、人はどれも卑屈で大きな眼から姿を隠そうとでもしているかのようだ。しかし、隠れる所などないことは、眼を護るかのように羽を広げる鷲の力強さからも明らかである。自然の営みにくらべあまりに小さな人間。前衛芸術家でありながら、小さな個人の内面に閉じこもるのでなく、自然からインスピレーションを受け続けたクレーの思想が鮮やかに描かれている。
 面白いのは、中央の眼と左上の太陽(?)、眼を支えるアーチと右の柱状のものとが形の上で呼応しあっていることだ。これは、鮮やかに見えるこの眼も、普段は何気ない自然の景色に溶け込んでおり、クレーによって見えるようにされた存在であることを示している。

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かつて夜の灰色から現れ出て

Fromgraynight  色の着いた部分の欄外に”Bahn(行路)”という題名がついていて、「かつて夜の灰色から現れ出て……」で始まる詩の文字そのものが絵になっている。ドイツ語が読める人なら、詩を辿ることができる。隙間なく埋められた細い線の文字と、その線を埋める淡いステンドグラスの様なデリケートな色彩のざわめきが、元の詩以上に、詩を詩たらしめている。それゆえ、ドイツ語が読めなくても、詩のもつ敬虔さ、きらめきの中の静かさ、といったものを私たちは感じることができる。

 クレーの絵の中で文字は重要な意味を持っているけれども、この絵のように純粋に文字だけで絵が構成されているのは珍しい。挿し絵ではなく、絵と文字が高い抽象度で一体化している点で、まさに視覚による歌、視覚による音楽と言えるのではないだろうか。
 砂をまぶした中央の部分は、長い間地面に埋もれていたこの詩自身が、時期を得て地中から今現われ出たという印象を強めている所も面白いと思う。

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険しい山道を天使に護られて

Roadwithangel  「険しい山道を天使に護られて」は、天使像の中では比較的早い時期の作品だ。
 伝統的な図像や、神話のモチーフを借りることもなく、しかも一筆書きに近いストイックな表現でありながら、溢れる情感と敬虔さはどうだろう。遠くの山は後にせざるをえなかった故郷だろうか。道連れとなる人さえいない険しい路を旅人は、頼りなげながらも、迷うことなく歩いていく。その背後には、天使が旅人と同じ方角をしっかり見つめて、体を包みこむように大きな翼を広げている。旅人に天使の姿は見えない。けれどもその足取りの中に天使の加護を感じて、振り向かずに歩きつづけていくだろう。その道こそ天上へ続く道である。

 天使の翼がどこまでも伸びて行くアルプスの蒼い空の色を、私は線描の彼方にはっきりと感じることができる。こういう絵を見ると、私はクレーに出会えて本当に幸せだとしみじみ思うのである。

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死の天使

Angelofdeath  恐ろしい絵だ。
 中央から少し下にそれたところに、闇の世界がぽっかり口を開けている。その闇の深さは全体的に沈んだ色調の中でも際立っていてる。これほどの暗い闇が描かれた絵を私は知らない。それは、宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」で、カンパネルラとジョバンニが別れる直前に見た石炭袋の描写を連想させる

 (その底がどれほど深いかその奥に何があるかいくら目をこすってのぞいても何にも見えずただ眼がしんしんと痛むのでした)

 そのとき闇の中に野原やお母さんまで見えたのは、既に彼岸の人となったカンパネルラだけだった。「死の天使」の闇も死を目前にしたクレーにしか見えないものだったのだろう。口元を歪ませ無気味な笑いを受かべる天使は、「死と火」に登場する髑髏か冥府の番人のようだ。一連の天使像に共通してに流れているユーモアも、ここでは影を潜めている。

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