2006/12/16

子どもたちへ ~ 愚劣極まりない教育基本法「改正」案成立から一夜明けて

 教育基本法「改正」案が15日参議院本会議で賛成多数で可決され成立しました。

 15日には全国から3000人を超える人が国会に集まって採決に反対しましたが、国会議事堂の中は、そんな声などどこにも見えないかのようでした。

 成立した後になっても、なぜこの「改正」案をそんなに急いで成立させなければならなかったのか、誰も説明してくれません。必修単位未履修問題や、いじめの問題や、学力低下の問題を「改正」案がどう解決するのかも説明されませんでした。中身が何も審議されず、マスコミもそれを伝えないまま「改正案」という抽象的な言葉だけが独り歩きしていました。

 現日本国憲法が「押し付け」だとして任期中の「改正」を公言する安倍首相は、「改正」前の教育基本法も同様にGHQからの「押し付け」だと攻撃したのが根拠といえば唯一の根拠のようなものでした。しかし、日本国憲法も、「改正」前の教育基本法も、戦前から命脈を保っていた日本の人権思想と、戦争国家の破綻に対する真剣な反省が結実したものであり、「押し付け」というのは歴史事実を無視した妄言です。国会図書館の資料を見れば一目瞭然です。架空の話、もし「押し付け」だったとしても、「押し付け」られた法案よりも遙かにレベルの低い内容しか立法できなかったことは、戦後60年間、自民党政治の空虚さを立証したと言えるでしょう。私はこんな基本法を認めません。少なくとも憲法がある限り。

 安倍首相は、参議院特別委員会の採決後、永年の夢に近づいたとコメントしましたが、百年の大計たる教育の骨子は、一個人の「夢」などで変えていいものではありません。「改正」前の教育基本法は、一政治家の思想がそういう風に教育に介入するのを禁じていました。安倍首相の情緒的な発言は、与党の「改正」の目的がまさにそこにあったことを無意識に自白したものです。

 民主主義は、ブッシュ大統領や安倍首相が海外に輸出したがるような抽象的なイデオロギーではなく、具体的な手続きだと私は考えます。参議院の特別委員会の採決の経過ひとつとっても最低限のルールが次々反故にされていきました。安倍首相は、タウンミーティングの法案提出責任者としての引責を恐れて審議を欠席。中曽根弘文委員長は、「採決はしない」と野党に約束して審議再開しながら、彼の一存で突然採決に踏み切り、その後抗議を恐れて、FAXもメールも着信できなくしていました。もはや議会政治ではなく、クーデターに近い。こういう人たちが、子どもに「教育」だの「道徳」だのと言う訳ですから、この国のモラルも落ちるところまで落ちたというしかありません。

 タウンミーティングでの一連のやらせだけでなく、反対者の締め出しもあったことが最近分かりました。力を持ったものが子分を雇って多数を見せかけ、意見の違うものとは話し合いさえしない。中日新聞の特報記事が批判したように。これこそ「いじめ」そのものではありませんか。

 しかし、「改正」前の教育基本法の精神は、時代の流れとともに忘れられるようなものではなく、制定の中心になった東京帝大の南原繁総長が「今後、いかなる反動の嵐の時代が訪れようとも、何人も教育基本法の精神を根本的に書き換えることはできないであろう。なぜならば、それは真理であり、これを否定するのは歴史の流れをせき止めようとするに等しい」と語ったとおり、世代、地域を超えた普遍的なものです。多くの無批判なメディアが垂れ流した日程を、何度も市民の力で覆したように、愚劣な「改正」案は早晩歴史の審判にかけられ、葬り去られるときが来るでしょう。

 その日がいつかは分かりません。しかし、私は今の子ども達に伝えたいのです。

 君たちは、総理大臣、文部科学大臣、そして国会議員と称する多くの大人が、どれだけ卑怯で冷酷かを見てきたでしょう。この過程を忘れずよく覚えておくことです。やがて君たちが大きくなったとき、こんな大人たちが消えてなくなってしまうように、君たちが同じまねをしないように、今の悔しさを覚えていて欲しいのです。そして、卑怯な大人を見返すときまで、どんなことがあっても死んではいけません。死ぬくらいなら、弱いものに対してでなく、大人にたたかいを挑んでほしい。

「小さき者よ。不幸な而して同時に幸福なお前たちの父と母の祝福を胸にしめて人の世の旅に登れ。前途は遠い。而して暗い。然し恐れてはならぬ。恐れない者の前に道は開ける。 ‥ ‥ 行け。勇んで。小さき者よ」(有島武郎『小さき者へ』から)

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2006/11/30

とんとんとんからりと隣組 同じ考えの人だけの集団目指す「再生会議」

 また「社会奉仕活動」か。これからボランティアやってる人を見たら、交通違反した人か、ともかく悪いことして捕まった人じゃないかと勘ぐってしまうな。せっかく学校や会社を離れて自発的にやってることにまで口を出し、点数をつけるなんて、考えただけでゲロゲロだ。

 いじめをしている子どもは影響力が大きくて一緒に議論できないから、別の部屋に隔離して先生とサシで話をするんだと。先生に正直な気持ち言えるならいじめなんてやらないや。いじめられている子どもと、いじめている子どもが顔を合わせず別々に結論を出すわけだな。自分がいじめる側に分類されなくてよかった、そう思ってびくびくしている子どもがたくさんいるだろう。下手な発言はできない、ってね。だいいち、影響力があるなんてどうして決め付けられるの?その逆から始まってる場合もあるんじゃない?社会に出れば、「影響力」があるのは結局エリートなんだってことくらい、知ってるさ。

 緊急のときっていうのはあるから、きれいごとを言ってられない場合もある。でも、そういうときのやり方は、当事者しかわからない。お上からマニュアルで指示されてもしょうがないんだって、なんで気付かないのかなあ。

 大事なのは、いじめてる子どもも、いじめられてる子どもも、傍観している子どもも、一緒に話すことだよ。今の子どもにコミュニケーション力が不足しているのは本当だと思う。どんなに四六時中メールをやり取りしても、顔を見合わせて話すのにはかなわない。膝を突き合わせて話すのが怖くて、メールやバーチャルな世界に逃げているのかもしれない。子どもがドロだらけになって遊ぶ広場も、ケンカの仕方を教えてくれるガキ大将もなくなってしまったんだから、それは子どもの責任じゃないんだ。

 それを取り戻すチャンスじゃないか。クラス皆んなで正直な気持ちを話し合うって言うのは。いじめっ子を隔離したんじゃ、いじめっ子はいつまで経ってもいじめっ子のまま、いじめられっ子はいじめられっ子のままだよ。

 いじめを放置した先生を処罰するというのもおそろしい。人間関係は、ひとつも同じものはないんだよ。努力がなかなか実を結ばないときもあれば、小さなひとことがこころの壁を崩してしまうときもある。そのテンポはひとそれぞれだと思う。直接子どもに接している先生よりその子のことを分かっているはずのないお偉方が、その途中を見て、あ、こりゃ怠慢だな、とか、不十分だな、とか決めるんだろうか。そこでその先生が飛ばされちゃったらその子も救いがないよね。

 知ってる?子どもの自殺は悲惨だけど、先生はもうその10倍も自殺してるってこと。ほとんどのまじめな先生はもう限界なんだよ。これ以上先生を見張ってプレッシャー掛けたら、ますます先生の自殺が増えるか、お偉方がこわくて、ほんとのことを言わないか、どちらかだよ。そんなんじゃ、いじめは絶対なくならない。

 先生を絶対だなんて思わないし、子どもはそんな先生がほしいんじゃない。子どもの声をちゃんと受け止めてくれる普通の大人がほしいんだ。結論は自分で決めるよ。そのかわり、結論を出すまで最後まできいてくれる先生がほしいんだ。

 そして、社会で威張っている人が、子どもが目標にできる生き方をしてくれなきゃ。うそ臭い言葉を子どもが信じていると思ったら甘いよ。そう、「再生会議」とかいうSFアニメにでも出てきそうな名前のあんたたちも。傍観しているのもダメっていうのなら、あんた達が手本を見せてよ。自分の損得でなく、人間が行動を起こすことがあるってところを。

 都合の悪い奴を目に付かなくするのが、問題解決だって思ってるでしょ。皆んな、そうやってこんなにしてしまったんだね。この日本を。

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2006/11/29

人間は、不完全な存在である 基本法「改正」が見落としている世界観

 人間は、不完全な存在である。

 これは、神を信じるか信じないかには関係ない。この前提を承認できない人とは、世界観が共有できない。しかし、自分は全能だと錯覚している人や、全能を気取る人についていけばなんとかなると誤解している人が増えているようだ。

 人間は、不完全な存在である。

 したがって、大人といえども、一方的に子どもを導いていけると考えるのは間違いだ。これは、年上の人を敬うかどうかとは関係ない。年上の人を敬うのは美徳だが、年下の人に自分への忠誠を強制するのは美徳ではない。もし教育が、年長者の思想や知識を年少者に一方的に植え付けるだけなら、人間は過去の固定した時点から一歩も進歩することができなかったはずだ。

 人間は、不完全な存在である。

 不完全な人間同士が争わず共存するには、自分を大切にすると同時に、お互いの価値観をぶつけ合うばかりでなく相対化してとらえられなければならない。多様な価値観それぞれを受容するにせよ、拒絶するにせよ、一度相手の考えを受け止める力があれば、世界は、その人にとって汲めども尽きぬ学びの場を提供してくれる。その過程で自分の古い殻を自分で破っていくほど楽しいことはない。教育の目的は、極論すれば、その喜びを経験させることにある、と私は思う。

 人間は、不完全な存在である。

 当然私も含め、多くの人は被害者であると同時に加害者である。その事実から自由な聖人やスーパーマンはいない。違いは、それを自覚するかしないかだけなのだ。いじめの加害者もいつ被害者になるか分からないし、被害者もいつ加害者になるか分からない。一流企業の社員がいつ職も家も失って放浪するかも分からない現代日本である。教育基本法「改正」を期待する人は、他人を傷つける行為や、いじめに耐えられないこころを生来の宿命と決めつけようとしていないか。自分は聖人かスーパーマンだと思っていないか。

 人間は、不完全な存在である。

 住む場所や時代が違えば価値観は変わって当然だ。若者と「大人」との間には大きな価値観の壁がある。では、壁をつくったのは誰なのだろう。国家の価値観を無批判に受容することを子ども達に求め、資本主義の宿命である商品市場開拓のために次々に新しい価値観への乗り換えを迫ってきた大人ではないのか。とはいえ、新しい価値観は悪いことばかりではない。「古き良き時代」には、差別される人々に目をつぶった総身内意識という異なる城壁があった。古い壁を打ち破ったとき、別の場所に壁が立ち現れることを恐れてはならない。

 人間は、例外なく不完全な存在である。

 それを嫌と言うほど身にしみた人類が、手にした方法が民主主義である。民主主義は、どんなに価値観の違う者でも、できればつきあいたくないと思う者でも、社会からそれを排除することを禁じている。いじめを犯したら学校からドロップ・アウトさせるというのは、管理者にとっては楽だ。自分が護られている壁から異物を放り出すわけだから。しかし、ドロップ・アウトした子ども達は、それからどこへ行くのだろう。人間や子どもは学校の中だけで生きているのではない。この世界からは、どんなに気に入らなくても、どこへも逃げ出すことはできない。しっぺ返しを食らう前に、価値観の違いを認めることだ。それが結局は社会的コストを削減する。

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2006/11/26

学校を試行錯誤の許される場に 「再生会議」の提言は解決にならない

 安倍首相直属の諮問機関「教育再生会議」(野依良治座長)は、25日まとめたいじめ問題に対する緊急提言で、いじめた児童・生徒に出席停止など厳しい対応を取ることを盛り込みました。

 相手がいじめに耐えられなくなって自殺した後も別の相手に恐喝や暴行を繰り返す例も聞いています。恐喝や暴力は「いじめ」ではなく犯罪的行為ですから、法律に基づいた厳格な対応が求められます。しかし、警察の統計でも少年の凶悪犯罪は50年前の5分の1であり、昔と比べて子どもが凶暴になっているわけではありません。特異な例をすべての子どもに当てはめて、少年法の「改正」をしたり、「非行」の定義を拡大することは別の意図があると考えるべきです。

 そして、私が幾度も指摘しているように、いじめで加害者が固定しているのはむしろ稀なケースなのです。絵本「ぞうれっしゃがやってきた」で平和と生命の尊さを訴えた作者の小出隆司さんは、最近中日新聞のインタビューに答えて、この本が教員時代の小出氏と児童との共同作業の賜物であることを紹介しながら、今のいじめ問題について、「子どもたちのコミュニティーが壊れてしまった。かつては子ども同士の道義があり、自分たちで解決できる力があったのに。高度成長が子どもを変えたんです」と環境の変化が子ども同士の関係を変えてしまったことを指摘しています。

 成長途上の子どもに、教育を受けた大人と同じ人権意識を要求するのは無理な話で、子どもの純真さがあれば仲良くやっていけるというのは楽観的過ぎます。とくに、思春期は些細なことで気持ちが揺らぎやすく、自分を護るために本意でない行動に出る経験は、誰しも振り返ってみればあるのではないでしょうか。少しずつ傷つき傷つけられあいながら、また、一歩進んだり後ずさりしたりしながら、人権というものを身体で覚えて成長していくのです。学校はそういう試行錯誤が許される場でなくてなりません。

 過度の競争主義と大人の介入は、学校という社会から人間的成長の機会を奪ってしまったのではないでしょうか。大人の期待する枠からはみ出ないよう、目立たないいい子にしているか、それができなければ開き直ってドロップアウトするしかない。子どもの不安がますますいじめを深刻で目に見えにくいものにしているように思います。

 「教育再生会議」は、いじめた児童・生徒、と簡単に括っていますが、それをどうやって判断するのでしょう。主導的に行っている子どももいれば、連鎖的被害者になるのを恐れて従っている子どももいます。

 ここにも、安倍首相やその支持者に見られる単純な善悪2分の世界観が反映されています。世界にはテロを行う国と、それとたたかう国の2種類しかないし、人間も生まれつき加害者になる人と被害者になる人がいる。その中間に切れ目なく国や人間が分布していることや、何を大切にするかの物差しは無限にあることを認めようとはしません。実際、多くの人は、ある場所では被害者であると同時に、別の場所では加害者なのです。安倍首相らは、自分は善であり加害者ではないと思っています。というより自分自身を基準にした「善」を押し付けようとしています。

 伊吹文部科学相は、24日、教育基本法「改正」の理由のひとつとして、「国会で決めた法律は、国民の意思で全体の意思だ。これと違うことを特定のイズムや特定の思想的背景を持ってやることを禁止」するのが、新たに設けられる「教育は、法律の定めるところにより行う」という規定の意味だと答えました。教育基本法「改正」が国民の意思でないことは、これまでの経過を見れば明白です。それを政府の主導で強行することは、法律をたてに、安倍首相や伊吹文科相の「特定のイズムや特定の思想的背景」を押し付けることに他なりません。(教育行政の責任者が、今どき、「全体の意思」などという言葉を平気で用いる不見識にもあきれますが…)伊吹文科相の意図がほんとうなら、そういうことは既に現行の基本法にかいてあるし、日の丸・君が代という「特定の思想」の強制を今すぐやめなければなりません。

 先日学校を通して伊吹文科相の「文部大臣からのお願い」とする本文300字足らずの文章を受け取りました。ご覧になった方も多いと思います。その冒頭はこんなのです。

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 このところ「いじめ」による自殺が続き、まことに痛ましい限りです。いじめられている子どもにもプライドがあり、いじめの事実をなかなか保護者等に訴えられないとも言われます。
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 「いじめられている子どもにもプライドがあり」というニュアンスに私はひっかかりました。文章というのは正直なもので、いくら取り繕っても、個人の思想は文体の何気ない表現にあらわれます。「いじめられている子どもにもプライドがあり」という一言に、文字面の論理的意味とは反対に、弱者に対する侮蔑の気持ちを感じ取らないわけにはいかないのです。それに、いじめの被害者が親に言えないのは狭義の「プライド」の為ではありません。語れば結果として楽になるとはいえ、それを思い出すこと自体が苦痛だからです。教育行政の長は、児童心理のイロハさえ勉強されていないようです。第一、最近の事件は、たとえ訴えても大人が黙殺したことから最悪の事態にいたったものがほとんどではなかったでしょうか。問題のすりかえはやめてほしいものです。

 強者の集団「教育再生会議」が提言したようにいじめた子どもを単純に排除することは、イラクの混乱を「武装勢力」の排除で解決しようとするのと同じく、問題の根っこを残したまま、新たな対立を持ち込むことになりかねません。子どもはますます目立たないよう、目立たないよう暮らすことに汲々とし、いじめは陰湿化するでしょう。問題に対する対症療法が不要だとは言いませんが、それを誰が提案するかが問題です。現場でなく権力者が提案する対症療法は、たいていの場合、無責任の言い訳に過ぎません。

 今必要なのは、子どもが自由に気持ちや考えを出し合う場をつくることであり、「子どもたちのコミュニティー」を復活させることです。不審者がいるから外に出るなというのではなく、駐車場より子どもだけで安心して遊べる広場をもっともっと増やすことです。学校にこれ以上選別の基準を増やさないことです。子どもの成長を学校任せにするのでなく、親や地域の大人みんなが子どもに対し自分の時間を割き、子どもの失敗を受け止める度量を持つことです。

 思春期の子どもの心のケアを専門にする名越康文さんは、最近新聞社が連載した記事への寄稿で、いじめの問題で不特定多数に呼びかけることに関して「君たちを十把ひとからげにして『生きろ』と呼び掛けることが、そんな、人それぞれ独特の、その人しか語り得ない経験を無視してしまうんじゃないか」と、葛藤を告白し、「何かをすべきだとか、どうあるべきかとかじゃなく、個人の語りしか、今は子どもたちに届く力を持たないと思う」と語っています。子ども達は、国家のための任意の材料としてでなく、取替えようのない不完全な自分と1対1で向き合ってくれる大人を探しているのではないでしょうか。

 現場に飛び込みもせず、上からの通り一遍の命令だけで問題を解決できるという態度に、教育基本法「改正」推進派の無知と傲慢が端的にあらわれています。

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2006/11/19

納期必達 あるいは長いものに巻かれる国の未来

 与党が、衆議院特別委員会で教育基本法「改正」案の採決に踏み切った。拙速採決は、じゅうぶん審議したとする与党の主張以外、特に理由もない。一部メディアは、これ以上の審議は、いじめ等の問題の先送りになるといって採決を支持した。でも、現在のいじめ問題の解決方法が法案の何処に書かれているか知っている国民はほとんどいないだろう。当然だ。法案に書かれてもいないし、政府が説明したわけでもない。

 第一、このような重要な法案について、わずか100時間程度で審議がじゅうぶんという感覚に恐れ入る。こうした感覚が教育現場で子どもの声をゆっくり聴く機会を奪っているのだろう。

 さらに、世論収集の場であるタウンミーティングのほとんどが、金まで払って動員したヤラセなのだ。本当に「美しい国」を目指す政治家なら、そこでもう一度仕切りなおしましょう、というのが筋ではないか。必修単位未履修にしたって、4年前から事実を知っているくせに放置したのは行政の責任である。それも特例措置で誤魔化して、自分達は全く襟を正さない。


 法案「通過」の日程は公聴会開催前から決めていたというが、納期必達はビジネスでは重要であっても、政治では必ずしもそうではない。効率より過程を優先するのが民主主義である。民主主義を標榜する社会で唯一権限が与えられるのは、全構成員(反対者も含めて)が納得して決めたという事実だけなのだ。

 安倍首相の言う「愛国心」や「道徳心」をたたきこまれた戦前の人々が、他国民に対してだけでなく、自国民に対してもどういうことをしてきたか。沖縄戦では、自国民を守るはずの軍隊が結局自国民を殺す立場にまわった。沖縄だけではない。自分が生き延びるため、あるいは政府の宣伝を信じるままに、足手まといになる怪我人、障がい者、子ども、年寄りを見殺しにし、意見の異なる人の弾圧に手を貸した。

 私は、今の基準から、そうした個人一人ひとりを責めるのは不遜だと思う。しかし、国家によって「愛国心」や「道徳心」を植え付けられた人が、戦争中いかに人間らしい心を奪われ、冷酷になるか、そして規律を失うか、戦争体験者が繰り返し語ってきたことではないか。

 それを忘れて、軍備拡大や経済制裁で隣人を脅迫し、規制緩和万能論で安全を企業に売り渡し、わざわざ非常事態の可能性をよびこむこと自体おろかだ

 非常事態になると人間は、自分は被害者だから、他の人もそうしているから、こういう状況ではしかたがない、いろんな弁解の言葉を用意して、小さな悪のベクトルを束ねていく。

 強制されたモラルは、いったんタガが外れると弱い。いざという時のモラルや規律を保証するのは、自立した市民の人権意識のみである。

 今のように、政府とは名ばかりの特権階級が、その役割の怠慢を棚に上げ、社会における格差拡大を自己責任(自己責任というからには、少なくともスタート地点とその後の環境が同じでなければならない。現実にはそうではない)のせいにして弱者を恫喝する時代では、一度パニックが起きれば、長いものに巻かれるしか判断基準のない人々がどういう行動に出るか。国民保護計画に書かれた机上の案など、絵に描いた餅になってしまうだろう。

 阪神淡路大震災でも、日本海重油流出事故でも、新潟中部地震でも、危機を救ったのは、「ボランティア」を強制された人や軍隊ではなく、安倍首相の嫌いな戦後民主主義を実践した人たちだった。教育基本法の「改正」は、その礎さえ台無しにしようとしている。

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こどもがたたかう相手としての大人 「伝説の広場の歌」をかみしめながら

 ご飯が上手く炊けると、釜のふたを開けた時お米が立っている。林さんの生の音楽に久しぶりに触れて、林さんのソングに接するうれしさって、そんなご飯を見たときの気持ちと似ているな、とふと思った。

 音楽を通して子ども達の創造力を見つけ出す活動を行っている「どれみふぁたんけんたい」が、12月10日の発表会で林光さんの曲を歌うことがきっかけで、先日林さんを福井に呼び交流会を開いた。林さんと聞いてはじっとしておれず、直接関係ない私も特別に参加させてもらい、楽しい時間をすごさせていただいた。

 75歳になっても、ずいぶん前にお会いした時と変わらず自然体で、子ども達の矢継ぎ早の質問やゲームにも飄々と対応されているのはさすが。

 子ども達がそれぞれ手製の楽器で披露した「雨の音楽」は、多様なパーカッションの背景に感じられる地鳴りの様なリズムが素敵だ。雨を待ち望んでいた草や虫達のわくわく感にどきどきさせられる。

 子ども達が歌う「こどものたたかい」という作品の楽譜も買った。楽譜が活字でなく、林さんの手書きなのが嬉しい。ソングの楽譜は手書きに限る。大学生で合唱を始めた私は、「軍隊を捨てた国」の挿入歌にもなった林さんの最も有名なソング「告別」を歌い、まだ背景も知らないうちから涙が出てきた。歌を歌って涙が出たのは初めてだった。楽譜を見ていると、その時の練習の雰囲気がよみがえってくる。

 「こどものたたかい」は、すべて林さんが作詞作曲した作品だ。短いが暖かい風刺が効いていて、子どもに寄り添いながら、なよなよ媚びたところがない。林さんは、楽譜集の冒頭にこう書いている。

『こどもとおとなとの関係ではこどもが弱者だからといって、こどもをおとなが保護してやるのがこどもの権利条約だというのは、どこかおかしい。こどもとおとなのたたかいのなかからひとつひとつの権利は手にすることができる。たたかい相手としてのおとながそこに見えるような歌をつくってみたつもりだ』

 これは目からウロコのメッセージだ。こどもの権利を、子ども自身が大人とたたかいながらかちとっていく。権利とは森羅万象の自然に対して発生するものではなく、必ず誰かを相手に奪い取っていくものなのだから、子どもの権利なら、大人にたたかいを挑むのは当然だ。しかし、「子どもの権利」となると、私も含めて、得てして大人が与えてやるような錯覚に陥りがちなのではないだろうか。

 今、政治の場で教育を語る大人の多くは、教育基本法の改正に反対した中学生を匿名で中傷したり、ヤラセに開き直ったりする卑怯ものばかりである。ならば、子どもはそんな大人に頭を下げて自分をまもってもらう必要はない。自らの正義をかかげてたたかいを挑めばよいのだ。

 林さんの美しくかつ骨太なソングに出会わなければ、私が今平和活動を続けていることもなかっただろうし、ブレヒトからハンドルネームを借りることもなかっただろう。

 最後に「伝説の広場の歌」を林さんの指揮で、参加者全員で合唱した。

 この歌は、林さんが宮沢賢治の「ポラーノの広場」に触発されてつくった作品だ。賢治が作りたかった「天上よりももっといい」ひろばの姿は、そこに最も具体的に描かれながら、語り部のキュースト氏の語り口には、それがまだ本当には実現せず、また自分には作れない寂しさが横溢していた。しかし、賢治をこよなく愛する林さんは、その広場をロマンチックな夢の国ではなく「いつかきっと行きつける約束の地」と歌った。林さんは現実を直視する人で、理想ばかりで作品を作る人ではない。それだけにこの明るい歌にこめられた願いは深い。

 もう7、8年前になるが、賢治の足跡をたどって、知人と秩父へ行ったことがある。その旅の宴会で、私は「伝説の広場の歌」を独唱した。この地で短いコンミューンを打ちたて、そして散っていった秩父困民党の人たちが、「いつかきっと行きつける約束の地」を信じていたであろうことを、自分に言い聞かせながら。

 日本は今、加速度的に危険な方向に向かっているように見える。しかし、パリや秩父で理想の自治を目指した人々との困難の差は比べようもない。

 林さんのソングは、彼らのたたかいが過去の冷たい史実ではなく、また単なる情熱だけで突っ走った無謀な試みでもなく、わたし達生きた人間につながる進行形の出来事であることを気付かせてくれる。

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2006/11/17

いじめは夢の近道ではない または、真の克服について

 伊吹文科相が、17日緊急アピールを発表した。全文はこんな具合だ。

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 弱いたちばの友だちや同級生をいじめるのは、はずかしいこと。 仲間といっしょに友だちをいじめるのは、ひきょうなこと。
 君たちもいじめられるたちばになることもあるんだよ。後になって、なぜあんなはずかしいことをしたのだろう、ばかだったなあと思うより、今やっているいじめをすぐやめよう。
 いじめられて苦しんでいる君は、けっして1人ぼっちじゃないんだよ。
 お父さん、お母さん、おじいちゃん、おばあちゃん、きょうだい、学校の先生、学校や近所の友達、だれにでもいいから、はずかしがらず、1人でくるしまず、いじめられていることを話すゆうきをもとう。話せば楽になるからね。きっとみんなが助けてくれる。

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 これを読んで、ああそうか、と思うひとがどれくらいいるのだろう?

 なんだか、知育教材の宣伝みたい。ひらがなを使って口語体にすれば子どもが聞いてくれるとでも思っている安易さが嫌だ。言葉のありきたりは措くとしても、こういうメッセージを発するなら、なぜ、教育基本法「改正」を充分な審議も経ず単独強行採決したのか。まったく信用できない。

 こんなアピールより、ヤンキースの松井秀喜選手がかつて語った次のメッセージのほうが、はるかに重みがあり、心に残ると思う。

「人は夢を持っていると思う。僕の夢は野球そのものだった。いじめることが夢なんて人は一人もいないはずだ。かなう夢、かなわない夢があると思うけど、いじめは夢の遠回りになっている」

 私は、少し前に「格差が広がる社会では、自分が志を果たすより、根拠無く誰かを見下して、安易な優越感にひたることで精神的安定を得ようとする」と書いたが、いじめは、自分が夢を持てないことの裏返しなのかも知れない。しかし、

「誰かを傷つけても幸せにはなれない」(「ともだちになるために」作詞:新沢としひこ 作曲:中川ひろたか)

のである。私は、この歌を、長年にわたって戦争や内戦で国土をあらされ、自国の文化も奪われてきたアフガンの子ども達が

■移動ミニサーカス MMCC
 http://www.japan-mmcc.com/

で上手な日本語と明るい声で歌うのを聞くと、涙が出そうになる。

 いじめは、学校に通う子ども達だけのものではない。今回は、いじめとたたかって真に克服した大人の話をしたい。

 優秀な技術屋は、分野が違っても共通した強みを持っている。ふとした話題に対する論理的な発想、仕事に対する責任感などだ。私が東京で勤めていた会社の大先輩だった彼もそういう一人だった。

 ところが、彼は特定の政党を公然と支持していただけで大きな差別を受けていた。

 彼は、はたらく者の視点から、仲間と独自の新聞を発行し続けていた。最初は工場で配っていたがそれが阻止されると、一軒一軒配ってまわった。私も東京在住中、その新聞作りに協力させてもらったことがある。組合が会社と協調路線に転じ多くの職場新聞の灯が消えた当時でも、彼の新聞は輝きを失っていなかった。政治的なプロパガンダではなく、職場の生の問題をとりあげ、日常のほほえましいコラムも温かさをそえていた。

 彼と仲間が若い頃受けた差別は凄まじかった。仕事を取り上げられ、工場の屋上につくった個室に閉じ込められた。会社の行事からも除外され、私生活でも会社の同僚に尾行された。何も間違ったことをしていないのに、新入社員の教育でも、会社側は彼の名前を出して非難した。これ以上のいじめはない。それでも、彼と仲間は会社を辞めず、はたらく者の権利を訴え続けた。

 私が入社した頃、そこまで人権を無視した処遇はなくなり、普通に仕事を任されていたが、昇進はなく部下も持っていなかった。

 ところが、不況で全国的にリストラの嵐が吹き荒れる中、転機が訪れる。会社は人員削減こそ行わなかったが、特別企画室(正確な名前は違うかもしれない)とかいう職場をつくり、余剰した管理職を次々に配転した。目的は、職場の上司に聞いても答えなかったが、大部屋に一人ひとつの机があるだけで具体的な仕事は与えられず、どうやら本人が自主的に辞職を言い出すまで閉じ込めておく場所らしかった。実態が公然のうわさとなっても、組合は対象が組合員でないことを理由に抗議も調査も行わなかった。

 そこで立ち上がったのが、彼だった。いじめられている管理職の中には、かつて彼を工場で小突き回し、個室に閉じ込め、尾行までして出世した人たちがいる。通常ならいい気味だと思っても無理はない。彼が支持する政党も、活動の敵対者を積極的に救おうとする動きはなかった。しかし、彼は、自分が受けた仕打ちは当時彼らが生きていくため会社に強制された結果であり、管理職であっても、はたらく仲間である限り、支援するのは当然だ、という信念から、職場新聞をはじめ、公然と支援キャンペーンを始めた。

 それは一見無謀なことのように思えた。しかし、彼の勇気は会社を動かし、ほとんどの職制を元のあるいは正常な職場に復帰させ、特別企画室を事実上解散に追い込んだ。職制たちは、ずっと後ろめたい思いをひきずっていたそうだが、その後、彼は昔の敵と一緒に酒を飲みながら歓談する仲になった。その後彼が昇進(彼の働きには全然見合わないけれど)したのが、この件と関係があるのかどうかは分からない。

 彼は、体制側が言うように、何でも画一的に反対するような人間ではない。彼にとって、はたらく者が皆幸せに近づくことが夢だったのであり、いじめられても、壁にあたっても、その夢を捨てなかったことが、ほんとうの勝利につながったのだと思う。

 彼ももう定年退職した。私が一身上の都合で東京の会社を辞めるときいただいたこれまでの職場新聞の束は、一生の宝物である。これだけのことをしても彼は少しも偉ぶることがなく、どんな活動も強制されてやるものではない、と笑う。

 それでも、どんな有名活動家よりも、私にとって、彼は、これからも、最も尊敬する師匠であり、目標であり続けるだろう。

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心の穴を ~ ほんとうに強い心

 教育基本法「改正」案が衆議院を通過した。通過したという表現もおかしなもので、きちんとした議論を与党が打ち切っておいて、抗議の欠席をした野党に責任をなすりつけたまま儀式的な採決をしたわけだから、通過などという言葉をあてるのは相応しくないだろう。

 しかし、この件は、また改めて書こう。

 都議会での発言に抗議した高校生からの手紙を受けて、石原都知事は甘えと切って捨てたそうだ。 ファイティング精神があればいじめられない、自殺宣言は甘え、という言い方は、結局すべて本人のせい、しかも原因が本人の素質にあるかのような差別的な発想である。

 いじめにあっても、どうしたら自殺せずに生きていけるか、小1の息子の方がよほど真剣に考えていた。

 親ばかと思われるだろうが、彼の意見を紹介したい。

 彼は、辛い時、困った時、「たすけて」と人に言うのは、弱いんじゃなくて、強い心なんだと言う。自分の弱さをさらけ出し、気持ちを吐き出すためには、心に穴を明けなくてはいけないが、その穴は自分しか明けられない。お母さんも、お父さんも、先生も明けることができない。だから、彼は今、そうした穴をいっぱい明けられるように、今は練習中らしい。

 幼稚園で教わったことを思い出して、そういう考えにいたったそうだ。娘や息子の通った幼稚園がずっと実践してきた本物の「心の教育」に、あらためて感謝の思いを抱いた。

 自分をありのままさらけ出すことは、ちっとも恥ずかしいことでも情けないことでもない。まっすぐ生きようとしているものほど、壁につきあたるものだ。それを知っている人間は強い。息子も、他の子ども達も、それをずっと忘れないでほしい。

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2006/11/15

「いじめられる方が悪い」という論理~自己不安の増殖

 出張中の韓国で、いきなり日本の中学生の自死について聞かれて驚いた。いじめによる連鎖的な子どもの自死は、韓国の新聞の1面で取り上げられるほど、国際的なニュースになっていたのだ。いじめに関し子ども達に最近行った世論調査で、「いじめられる方が悪い」という意見が多数を占めていたことにショックを受けていた私は、返事する言葉を失った。「大人が悪いんですよ」とひとこと言うと、相手も「その通りです」と頷いた。

 若者の心は弱い。生活の心配もないのに、たかが受験くらいを「生存競争」などと大げさに形容し、自分の目標のなさを世の中のせいにして甘えていられるほど弱い。彼らは、時として同じ受験生の苦しみに同情を覚えても、毎日生きるのに精一杯な人たちには冷淡だ。

 いじめは嫌だと思っても、被害者をかばえば自分もいじめられる、という先回りの不安感が、世論調査の回答にも影響しているように思う。本当に怖いのは、孤立することではなく、人間の道を踏み外すことだ。ものを盗むより、意図して他人を傷つけることの方が、ずっと悪い。そういうことを子ども達に大人が教えなくなった。それはひとりで40人もの個性に向き合わなくてはならない教員ではなく、1対1の親の仕事なのに。

 そもそも、いじめは中学校や高校の子どもの中だけにあるのではない。職場でも、地域でも、新井英一のブルース「ああ、この国では」の通り、この国は弱いものいじめばかりではないか。学校といえば、日の丸・君が代の強制に反対した教員に対する処分はいじめではないのか。それを正当だと言い張る限り、文部科学省にいじめについて語る資格はない。

 格差が広がる社会では、自分が志を果たすより、根拠無く誰かを見下して、安易な優越感にひたることで精神的安定を得ようとする。今のいじめに根拠も目標もありはしない。人々は、とにかくいじめる対象を求めているのであり、相手は誰でもよいのだ。それは時には特定の階級だったり、民族だったりする。いじめの無指向性を知っているからこそ、みんな必死でいじめる側にしがみつくのだ。

 「ファイティングスピリットがなければ、一生どこへ行ってもいじめられるのではないか」などという、石原都知事の無軌道な発言は、世の中には勝者と敗者しかいないという彼のステロタイプな世界観の現れだ。彼は、いじめる者もいじめられる者もボーダレス化しつつある現状が分かっていない。そう。彼のような特権階級を除いては。

 私は、いじめという言葉で一括りにすることで中身が薄められた虐待や犯罪を許せないし、それを知りながら「いじめられる方が悪い」とおそるおそる回答する臆病さを弁護できない。被害者は、反撃するにもつらい、親にも相談できないような、陰湿で人間の尊厳を傷つけるようないじめにあっているのだ。

 しかし、あえて言う。自死が何かを解決する、というナルシズムに逃げてはいけない。死んでも、しばらくは人は騒ぐかもしれないが、誰も君の身代わりになって問題を解決してはくれない。

 いじめよりも保身を優先する卑怯な大人、にお上の決めた教育基本法「改正」を中身も知らずに賛成する他人任せな大人、君たちの死を食い物にして恥じないマス・メディアなど、君たちの方から見限ってしまえ。その悲しみを怒りにかえろ。

 生きていれば、そのチャンスもある。

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2006/11/05

「生命」でなく「人権」を 瑞浪中の少女自殺について つづき

 瑞浪中の少女が自殺した事件で、学校側がいじめがあったことをようやく認めた。

 いじめを行ったとされる4人の生徒は、問題が報道されて以来学校を休んでいるという。その子たちに対して、自殺した少女の父親は「学校が不誠実な対応を続けて問題を長引かせたために4人が全部の罪を背負ってしまった。学校は4人にも謝罪しなくてはならない」と指摘した。胸が詰まる。簡単に言える言葉ではない。こうした父親に育てられた少女は、問題を他人に責任転嫁するのを潔しとせず、苦痛を背負いこんでしまったのかもしれない。

 学校側はカウンセラーを4人の家庭に派遣するという。しかし、「学校は4人にも謝罪しなくてはならない」という言葉の重みをどうとらえているのか疑問は残る。自殺した少女の父親が、4人やその保護者を憎んで当然なのに、それをしないのは、それが愛していた娘の望むことではない、と信じているからなのではないだろうか。加害者の親は、その切なさを理解できるまで苦しまなければならない。

 4人や学校が何回謝ろうと、死んだ娘は決して取り戻すことはできない。せめてこの事件に意味を与え、少女の14年間に意味を与えるためにできることは何だろう。4人が今度は被害者となっていじめが更に蔓延することは少女も父親も望んでいないだろう。いじめに加担した人はもちろん、かかわりの無かった人も問題を逃げずに受け止めることしかないのかもしれない。

 いじめによる自殺が起きると、校長が決まって言う講話は「生命を大事にしよう」というものだ。これほど無神経で無責任な対応もない。これでは亡くなった被害者に諭しているように聞えるではないか。そうでなくても、じゃあ、自殺しない程度ならいいのか、と問い返したくなる。「生命を大事にしよう」は当たり前だ。結果として相手の生命を大事にできなかった理由を考えることが重要なのだ。

 ここで、「人権」という言葉の出番になるはずなのだが、本来誰でも理解できる普遍的な「人権」を、あたかも難しく危険な考えのように遠ざけてきたのが今の教育行政にほかならない。

 「生命」という言葉を問題の収拾の切り札として安易に使う人は、「生命」を軽んじている人だ。もちろん人間は生きていることがいちばん大切だけれども、人間は生物的に生きているだけの存在ではないはずだ。ひとりひとりが、自分は生きている、生きていて嬉しい、と感じられなければ「生命を大事に」しているとはいわない。

 ニュージーランドの学校で行われている平和教育の「教師のための手引き」を、3年前広島のグリーン・ネットワークが翻訳した。そこにかかれている言葉の正直さと、それがNGOの協力も得て全国で実践されていることに、私は大きな感銘を受けた。そこには移住者と先住民とのきれいごとでない歴史の教訓が活かされている。

 ニュージーランドの子ども達は、相手と自分の意見や立場が違ったとき、紛争をどう解決するかを、議論やゲームを通して学ぶ。誰かが犠牲になって誰かが勝つということが排除され、どちらも勝つことが重要視される。そのためには、相手を思いやることももちんだが、怒りをその場任せに垂れ流すのではなく、自分の感情や考えを相手に理解できるように伝えることが目標になる。

 このコンパクトで簡潔なリーフが、日本の教育現場に示唆するものは大きい。しかし、それ私に紹介してくれた大庭里美さんも昨年急逝してしまわれた。なんとか広げていきたいと改めて思う。

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