2009/09/22

兵士達の絶望と希望を私達の胸に ~ 「冬の兵士」邦訳を読んで

 TUP(Translators United for Peace)の努力によって、反戦イラク帰還兵の会による公聴会の記録「冬の兵士」が、岩波書店から邦訳出版された。 田保寿一さんの記録映画とともに、反戦を訴える古典となる書物だと思う。(以下は、Amazonの紹介ページ、TINYURLで短縮してある)

 http://tinyurl.com/lae459

 

 運命はたいてい過酷で理不尽なものだ。人間は個人の力では変えようのない困難に出会う。しかし、その中で、何を大切にし、何を目指して生きていくかは、一人ひとりが決めることができる。「冬の兵士」公聴会で赤裸々な証言を行ったのは、国家と言う怪物にレールを曳かれた運命から、自分の人生を取り戻そうとたたかう人達である。

 国家と言う名前を背負って「合法的に」人を殺すことはどういうことなのか。引き金を引く瞬間何を感じるのか、どんな匂いがし、その後で食べる食事はどんな味がするのか、ほとんど想像ができない。ハリウッドの映画のように爽快ではないのは分かる。しかし、戦後60年家族を直接戦場へ送った経験のない私達にとって、戦場や兵士と言う存在はあまりにも日常から遠い。イラク特措法が成立し自衛隊を派兵したときでさえ、どれだけの人が理解しようと努力しただろう。

 「冬の兵士」を手にして、私は、兵士達一人ひとりの人生の重みを読み流してしまわないよう、各証言の冒頭に書かれた兵士の履歴もゆっくり読んでいった。部隊名や出身地から何が想像できるか、と言われると心もとないが、それを共有しようとする気持ちが求められるような気がしたからだ。すると、出身地域の広範さ、部隊の種類や武器の多さ、これらを日頃はどれだけ無関心に受け流しているのだろうと考えさせられる。軍隊で使われる独特の言葉遣いに、戦争という手段の不自然さが象徴されている気がした。

 用語と言うのは怖い。グァンタナモ基地で任務に就いたクリストファー・アレントは言う。直接的な暴行は言わずもがな、よしんばそうした行為がなくても、何の理由も説明されず突然家族から引き離され、いつ釈放されるとも分からない独房に閉じ込められること、これは「拷問」ではないのか、と。人間を人間扱いしない拷問のニュースに慣れてしまった私達は、直接的な暴行さえなければ人道的であるかのように勘違いしがちだ。麻痺しているのは兵士達だけではない。

 証言の率直さは、法や平和運動の要請などの外的な力ではなく、彼らひとりひとりの心の奥深く根ざした良心の声に支えられている。戦場と言う極限的な状況を通しても、外部の基準に判断を任せることを潔しとせず、自分自身の声に従う力が人間に残っていることに、私は何より感動し、希望を感じた。

 ファルージャやラマーディーに派遣されたジョン・マイケル・ターナーは、名誉戦傷章をむしりとり床に投げ捨てた。同じような姿勢を示した証言者は少なくない。これを勇気あるパフォーマンスとだけ捉えてはいけない。結果的に一部の富裕者の富を増やすために、人生や生命までも危険に晒した彼らへの代償として、名誉でもその後の生活の支援でもなく、こんな飾りしか与えられない絶望を、私達は共有しようと努力しなければならない。

 人間が人間を殺す、あるいは殺される行為がいかに不自然なものか、それを強制させられた人達の声に無心に耳を傾けることによってのみ、私達は気づかせられるだろう。あなたがアダム・コケッシュや、ドミンゴ・ローザスや、その他多くの「冬の兵士」と同じ場所、同じ瞬間に立たされたとき、違う行動が取れるかどうか、いつも自分の心に問うてほしい。罪のない人の人生や生命を奪った一撃の背後には、個人や国家のいくつもの影が積み重なっている。証言を読みながら、私は、イラク侵略直前に13歳の少女シャーロッテ・アルデブロンが、メイン州の平和集会で行った演説を何度も思い出した。シャーロッテは、犠牲となるのは、「ものごとを決められないのに、結果はすべてかぶらなければならない世界中の子どもたちです」と訴えた。武装した兵士と子ども達は同じではない。しかし、兵士も、「ものごとを決められないのに、結果はすべてかぶらなければならない」点では変わりないのではないだろうか。私達は殺し合っているのではない、殺し合わさせられているのだ。

 本を読み終えて「反戦イラク帰還兵の会」の略称「IVAW」の鋭角的なアルファベットの列が、奇しくも兵士達の茨の道程を示しているようで辛くなった。歴史的な政治の転換を始めるカードを手にした私達が、どういう一歩を踏み出すべきか。彼らの声を聞こう。

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