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2009/02/22

ガザの家族への取材 「忘れるなんてできない」

 ガザの子ども達のトラウマが国連でも問題にされるようになりました。

 戦争がもたらす被害は、攻撃している間の人命の損失や物理的な破壊に留まりません。特に子どものときに体験した恐ろしいできごとから受けた心の傷を癒すのは、容易なことではありません。

 家を失い避難所となった学校で生活する家族の生の声を、UNRWAが「ガザの声」で紹介しています。そして、ここで紹介されているぞっとする体験は、おそらく氷山の一角にすぎないものです。

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■「忘れるなんてできない。いつでも頭の中に甦ってくるんだ」
【I can not forget them, they are in my head all the time"】
http://www.un.org/unrwa/refugees/stories/2009/voices_from_gaza/testimonies01_feb09.html
(09/Feb./2009 UNRWA "VOICE OF GAZA")

~ El Fakhoura校に避難した家族へのインタビュー ~

 Testimonies01

 写真は、1月6日、El Fakhoura校の近くで起きた事件で亡くなった人達の葬儀

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 Yusra Ragheb Al Talah(43歳)は、16歳から、まだ15か月まで8人の子どもの母親です。夫は西岸地区にいます。インタビューの最中、彼女はほとんど話さず、とても消耗しているようでした。

「わたしの家は、ベイト・ラヒアのアラタトラにありました。攻撃は18時ちょうどから始まり、戦車や飛行機から砲撃され、とても大規模なものでした。子ども達と家にいた時怖くてしかたありませんでした。

 わたし達は安全な場所を求めて部屋から部屋へ動き回り、とうとう1.5平方メートルの小さなトイレに身を寄せました。朝までそこにいましたが、隣の家をF16のミサイルが攻撃した時、私達の家は崩れて屋根が頭に落ちてきました。わたし達は皆、叫び声を上げ、もう死んだと思いました。近所の人が助けに来て、子ども達を別の家に連れて行ってくれるまでまで、わたし達はそこから動けませんでした。そこにいた3日間、食べ物はなく、子どもにパンをいくらかやっただけでした。わたし達を避難させてほしいと、藁にもすがる思いで赤新月社に電話をかけましたが、救援は来ませんでした。イスラエルがそれを妨害したのだと言われています。彼らがしてくれることと言えば、白旗を掲げて自分で出てくるよう通告することだけです。

 わたし達は、泣き叫んでいる15か月の娘も含め、皆白旗を掲げて出て行きました。わたしはその娘を抱いて歩いていましたが、戦車に近づいたときつまづいて幼い彼女を落としてしまったのです。わたしは彼女を助けあげることができませんでした。道路は完全に破壊され、歩くことができませんでした。わたしはたいへん落ち込んで、気が遠くなりそうでした。近所の人達が、わたしに手を貸し、子どもを連れて行きました。

 戦車はわたし達への砲撃をやめなかったため、西の合流地点に着き、Al Fakhora校に避難するまで、歩きながらずっと脅えていました。」

 しかし、学校では更に悲劇が待っていたのです。

「わたしは、子ども達にサンドウィッチを作っていました。その時、ミサイルが学校のすぐ近くに着弾したのです。わたしは、とても脅えている子ども達を傍に集めました。わたしは、子ども達を抱いて、再び砲撃が始まったことを感じました。窓の外を見ると、通りには殺された人の遺体が横たわっていました。

 攻撃がやんだと聞いてから、わたしは自分の家を診に行きました。すべてが燃え尽きて、何も残っていないのを見て、ショックを受けました。イスラエル軍は、わたしに何ひとつ残してくれませんでした。それ以来、わたしはほとんど口を利けなくなってしまいました。

 子ども達は、とても落ち着かず、小さな物音にもじっとしていられなくなります。子ども達は、父親と別れ、住む家も部屋も、読む本も失くしました。これまでの生活いっさいを失くしたのです。しかも彼らはまだほんの子どもです。このような扱いをされるべきではありません。もう子ども達はずっと年をとってしまったかに感じます。

 子ども達も家を見に行きました。わたし達は、これほどの損害だとは予想していませんでした。わたし達は皆ショックを受けました。子ども達が大事にしていた本や服を持ってこれると期待していたのに、何一つ残っていませんでした。すべて燃え尽きていたのです。子ども達もそれ以来、あまりしゃべらなくなりました。

 まだ7歳や5歳の子どもが自分の家が燃え尽きたのを見た時、どんな風に思うか想像できますか?」

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Abdallah El Najar(8歳)は裸足で遊んでいました。わたしは廊下で彼と会いました。彼は困惑しながら話してくれました。

「僕の家は完全に壊されてしまった。お母さんが僕達のお昼ご飯を作っていたときだった。僕たちは、靴もはかないで全力で走ったよ。大声で叫びながら。

 僕は、あのときのことを絶対忘れない。家を見に戻ったのに、何もないんだ。すごく悲しかった。僕の服、ベッド、毛布、かばん、本、靴、すべて持ってくるつもりだったんだ。でも、ひとつも残っていなかった。」

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Yasser Mohammed El Najar(37歳)は、11人の父親で、UNRWAのアシスタントを引き受けていました。

「わたしの家がF16のミサイルで木っ端微塵になったのは、イスラエルの作戦が始まって2日目のことでした。子どもと一緒に命からがら逃げました、そして、すべてを失いました。

 わたしは、私達の家族に割り当てられた学校に来て、教室で他の家族と一緒になりました。大人の男は、他の家族が寝る場所をつくるために、夜はよく外で寝たものです。ひとつの部屋に115人が同居していたのですからね。

 わたし達はそこが安全だと思っていましたが、隠れる場所はどこにもありませんでした。3個のミサイルが学校の近くに着弾した時、わたしの子ども達は遊び場で遊んでいたのです。目の前で人々が殺された体験を思い出すのは、大人の男にとってもとても辛いことなので、わたしは何も思い出せません。とても辛いのです。わたしは今あなたと話をしていますが、自分がまだ生きていることさえ信じられません。ミサイルが着弾したとき、わたしは子ども達を捜しに駆け下りて、遺体を見渡して、そう手足や他の肉片を、わたしの子ども達の誰かだと特定できる焼け焦げた遺体を探したのです」

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Ahmed Yasser El Najarは、10歳で、小学3年生でした。

「ミサイルが学校の横に落ちて、僕は怪我をしました。榴霰弾で足をやられたんだ。死体を見て怖くなって泣きました。彼らを忘れることなんてできない。いつでも僕の頭の中に甦ってくるんだ」

(仮訳どすのメッキー 22/Feb./2009)
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