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2007/08/19

軍隊があっても積極的に巻き込まれに行ったりはしない ~ 佐藤新参議院議員の発言について

 新しく参議院議員になった人の中に、イラク派兵の現場のシンボル的存在だった佐藤正久元隊長がいます。彼の発言が今問題になっています。

 彼は、10日のTBSの報道番組で、オランダ軍を助けるため、あえて戦闘に巻き込まれるような状態を意図的に作り出そう考えていたことを吐露しました。自衛隊法はもちろん、イラク特措法でも、自衛隊はシビリアン・コントロール下で「非戦闘地域」で「人道支援」活動を主任務とすることが前提とされ、武力行動に出るのは、隊員の安全が脅かされた際の正当防衛範囲に制限されています。一応は。こんな理屈に縛られていたのでは、いつまでたっても本来の派兵目的である軍事行動の既成事実化がはかれないと思ったのか、現在集団的自衛権「有識者」会議で検討している「駆けつけ警護」を先取りして、必要もないのに、言い換えれば相手の要請もないのに、わざと攻撃されに出て行こうとしていた、ということになります。

 佐藤議員の行動原則は、憲法9条を完全に無視しているだけではありません。憲法「改正」を至上目標とする安倍政権でさえ、表立っては否定することのできないシビリアン・コントロールや専守防衛の原則をもぶっちぎっています。

 何より、イラク「復興支援」のための「人道的派遣」がいかにまやかしであり、最初から国民や国会の声など最初か聞く気がなかったか、ということを、現場の最高責任者が自らの口で明らかにしたのですから、イラク侵略を支持し派兵を強行した小泉前首相と、それを正しかったと今も擁護している安倍首相も責任を免れることはできません。

 日本ジャーナリスト会議が、「佐藤正久発言に対する公開質問状提出あらゆる戦争の廃絶を願う市民有志」名で賛同者を募り、7項目の公開質問状を佐藤議員に提出しています。

 http://jcj-daily.seesaa.net/article/51631432.html#more

 ここで、私は、「あえて」別の視点からも佐藤議員の発言を批判することの重要性を指摘したいと思います。

 軍隊をシビリアン・コントロールにおくというのは、今の民主主義国家なら当然のことです。軍事行動は税金や、兵役と言う形でのサービス、国民が築き上げた科学技術の成果等国民の提供する有形無形の資源がなければなりたたないのですから、軍はその結果について資源の提供者である国民に責任を負わなければならないからです。自分ですべて決めてしまい、調査も裁判も自分でやるような組織では、効率的な活動が行われず、いたずらに国家の資源を消耗し、戦争に勝利することはできないでしょう。国家と軍隊の論理からしても、指揮官には味方の人的・物質的損害を最小に抑えるよう努力することが要請されます。

 先制攻撃症候群にかかっているブッシュ政権下でさえ、政府と国民の間でその合意は暗黙に成立しており、現在の広範なイラクからの撤退支持や、ブッシュへの責任追及の動きは、ブッシュ政権がその合意を反故にしたことへの抗議の意志が発端であると考えられます。

 ところが、日本では従来、戦争行為そのものが人道的に批判され、あるいは逆に肯定されることはあっても、その結果に対し責任者の具体的判断が問われることはほとんどありませんでした。アジア太平洋戦争を「正義の戦争」と強弁する立場の人であっても、軍の中枢や現場の指揮官が無計画な戦闘行為で損害を拡大させたことの責任まで捨象してしまうのはおかしいではありませんか。民族主義者こそ、石原の賛美する「特攻」を、これから国を背負って立つ人材を意味もなく消耗した愚策として批判すべきなのです。

 オランダ含め、イラク侵略に協力した国の指揮官でも、自国の損害を最小にし、不要な戦闘は避けるということを常に考えていると思います。頼まれもしないのに、わざわざ出かけて「巻き込まれ」るなんてことをして、自国民に損害を出したら、9条のない国でも大問題になるでしょう。だいいち「駆けつけ警護」などとピザの配達みたいな都合のいい紛争の介入の仕方が成功すると本気で思っているのでしょうか?そんなものなら、ソマリアも、ボスニアも簡単に国際的合意ができていたでしょう。集団的自衛権の導入を考えている面々の多くが幼稚な軍事オタクにすぎず、リアルな想像力を欠いているかわかろうと言うものです。

 佐藤隊長がイラクに派遣されていた当時、切羽詰って超法規的な処置も含めた判断をしなければならなかった状況ではありませんでした。(給水さえ丸腰のフランスNGOに替わってもらっていたのですから)また、そういう判断を国民から負託されていたわけでもありません。佐藤議員が、当選後のアドバルーンとしてでなく、当時本気でそう思っていたのだとしたら、そして、もしそれを小泉首相が知らなかったとでもいうのなら、これこそ謀略という表現で呼んでも構わない行為だと思います。

 小沢氏は元来改憲論者だったのも事実だし、小沢民主党も憲法についてもちろん一枚岩ではありません。将来的にどう動くかは、今後の世論にかかっています。

 しかし、少なくとも小沢民主党はイラク特措法の延長には反対だと言っているわけです。わたし達は、今はその姿勢を支持し、右翼ジャーナリズムの中傷を跳ね返す必要があると思います。佐藤議員の発言の不当性は、軍隊、あるいは自衛隊の存在を許容する人たちとも、(むしろ自衛官やその家族の人たちにとっては、これほど自分達を軽視した発言はないわけで)一緒になって追求できると思います。

 一気に9条の是非でふるいにかけると、そこにたどり着く過程の重要な議論を見逃す恐れがあります。佐藤議員の発言は、まさにそういうテーマではないでしょうか。

【追記】佐藤議員の事務所は、公開質問状が届く前、「現場に行って法的不備があると感じての発言」と反応したという。佐藤議員も前述の報道番組中「日本の法律で裁かれるのであれば喜んで裁かれてやろう」などと言っていたが、よしんば現行法に不備があるとしても、まず議論を尽くして法を変えてから実際の行為を変更するのが法治国家である。立法府ではたらく国民の下僕たる国会議員が、気に入らなければすすんで法を破るのでは、幼稚すぎてお話にならない。

 それでも、だまされてはならないのは、これは、本質的に法律があるかないかの問題ではないということだ。日本から見れば法的には何でもありに見える米国でも、同じ立場の人が同じ発言をしたら、どういう反応が返ってくるか想像してみられるとよい。やはり、こんな出鱈目な指揮官は更迭せよ、という声が主流になるのではないだろうか。

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2007/08/03

それでもいいのさ、生きていくしかないんだよ ~ "American Tune"が愛され続ける意味

 ポール・サイモンの「アメリカの歌 (American Tune)」は、彼の全キャリアの中でも最も好きな曲です。演奏を聴いて涙があふれてきたというのは、この歌が初めての体験だったと思います。

 「明日に架ける橋」や「ボクサー」に描かれた今を生きる人たちの悲しみと希望は、この歌でさらに深く、繊細になりました。この曲がフィーチャーされたアルバム「ひとりごと(There Goes Rhymin' Simon)」が発表された1973年のローリング・ストーン誌の人気投票で1位に選ばれたり、独立200年記念行事で歌われたり、と第2の国歌に近い扱われ方をしているときいています。

 バッハのマタイ受難曲をベースにした澄んだメロディに乗せられた歌詞は、字面の上では、シンプルで分かりやすい。でも、その歌詞が具体的に意味するものを、私は最近までつかみかねていました。言い換えれば、アメリカ国民でない私の心をこれほど揺さぶるものは何か、ということです。

 ところが、偶然と言うのはおそろしいもので、シンディ・シーハンの休養宣言から復帰にいたるメッセージを訳している中で、「アメリカの歌」を歌っている人物が具体的に浮かび上がってきました。とくに、この歌の中の 'You'が誰を指しているのかが問題でした。主人公と一緒に家出した友達でもいるのでしょうか?いや主人公は孤独のはず、等などスッキリしなかったのですが、この 'You'こそ、シンディが「引退」宣言を"Good-bye America…you are not the country that I love and I finally realized no matter how much I sacrifice, I can’t make you be that country unless you want it."と締めくくったセンテンス中のの 'You'と同じではありませんか。

 そう気付いて、思い切り意訳になりますが、今のアメリカ市民とわたし達日本市民ともに共感できるメッセージとして訳し直してみました。

 ポールは、悲しみの中の希望を混じりけ無く表現できるソングライターです。「おお、見えるか/この薄明の中に/我々が夜を徹して/誇らしく掲げたものが」で始まる軍歌「星条旗よ永遠なれ」や「山を越え/原野を渡り/海原へ/アメリカに主の祝福あれ」と歌う「ゴッド・ブレス・アメリカ」とともに「アメリカの歌」がずっと愛されている意味に思いを馳せていただければ幸いです。

♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪

「アメリカの歌」

何度も誤解を繰り返し
どうしていいか分からなくなって
その度に一人ぼっちになって苦しんだ
でも大丈夫さ、そういうものなんだよ
僕は骨の髄までボロボロになってしまった
もういつまでも明るく夢を持ち続けることなんてできないよ
僕たちの故郷からこんなに遠く離れてしまってはね

打ちのめされたことのない魂なんて知らないし
僕には打ち解けられる友達もいない
夢は必ず閉ざされ現実に跪かされるものなんだ
それでもいいのさ、大丈夫だよ
そんな風にして僕らはこれまでやってきた
行く先を案じてみても、何が悪かったのかなんて分からない
分からないのに考え続けている

死んでいく夢を見た
僕の魂がふいに身体を離れ、僕自身を見降ろしたんだ
僕をいたわるように優しく微笑んでね
空を飛ぶ夢も見た
目の前には自由の女神が鮮やかに輝き
彼女を超えて海のかなたに漕ぎ出していく夢を

僕たちはメイ・フラワーと呼ばれる船でこの国にやってきて
今では月にだって行けるようになったのに
僕たちの暮らしは不安と絶望でいっぱいで、
それでも僕はこの国の歌を歌い続けている
ああ、それでもいいのさ、生きていくしかないんだよ
僕たちだけが祝福される時代は終わったんだ
それでも、明日は相変わらずやって来るから
立ち止まってみたいのさ
そう、僕は立ち止まってみたいだけなんだ

"American Tune"(Lylic and Music by Paul Simon 1973)
(訳 byどすのメッキー 3.August.2007)

※原詩は以下などをご参照ください。
原詩 http://www.sing365.com/music/lyric.nsf/American-Tune-lyrics-Paul-Simon/47872910DB0822C54825698A000B45AC
動画 http://www.youtube.com/watch?v=AE3kKUEY5WU

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朝青龍は、そんなに悪いことをしたのか?

 ビデオを観ると、確かにちょっとやりすぎか、と思う。軽率の批判は素直に受け止めなければならないだろう。しかし、これまで一人で相撲界を支えてきた功労者に引退勧告をちらつかせるほどのことなのか?私は大いに疑問だ。

 親善目的のお遊びサッカーと相撲の真剣勝負、しかも横綱に求められる手加減の許されない取組みとでは、運動量もリスクもまるで違う。そのことがまず無視されている。日本の「国技」である相撲の本場所数は江戸時代には1年1回だった。それがどんどん回数が増えて今は6場所、90日をこなさなければならない。加えての地方巡業である。いくら心身鍛錬を積んだ力士といえども、体調管理を維持するのは並大抵ではない。しかも、軽い怪我で本場所や巡業を休んだりすれば、朝青龍に限らず、精進が足りないと非難されるのは必至だからどうしても無理が生じる。綱とりまで後一歩で涙を呑んだ栃東の脳梗塞は、こうした過密日程の強行が一因になっていなかっただろうか。本当の相撲ファンなら、日本人横綱が久しく誕生しないことについて、ハングリー精神を云々する前に、大成するはずの人材の力士生命を非科学的な精神主義が奪っていないか、冷静に考えるべきだと思う。

 朝青龍自身も名古屋場所は怪我をおしての優勝だった。怪我をおしてでもプレーするという気持ちを一概に否定はしないが、それが当たり前として押し付けられてはならないと思う。どんなスポーツでも、ひとりひとりの選手は、選手である前に人間としての基本的人権を尊重されるべきだ。今まで朝青龍が「わがまま」と批判されてきた行為は、相撲界でなければせいぜい注意されて終わり程度のものではないのか。逆に、飲酒運転とか、一般人への暴力行為とか、運動部指導者の暴力行為とか、先輩後輩をかさにきたいじめとか、そういう犯罪行為なら問答無用で断罪されてしかるべきだろう。もっとも、日本はそういうことに対してはいたって甘いようだが…。

 文化的交流があり、基本的に同じルールのプロリーグを持つ野球でさえ、日本人がメジャーで活躍するには、いくつもの壁がある。まして、日本にしかない「国技」相撲で成功するためにどれだけの努力が必要か。海外で活躍する日本人プレーヤーで英語のインタビューにすらすら答えている人がどれだけいるかを考えてみただけも想像がつきそうなものだ。メジャーリーグは、人種偏見を取り去っていく歴史でもあった。信じられないことだが、ハンク・アーロンがベーブ・ルースの本塁打記録を破ったときも、決して賞賛の声は大きくなかった。彼が黒人選手だったからである。しかし、今、メジャーのファンは、昨年松井秀喜が怪我から復帰した第一打席の前スタンド総立ちで拍手した。いまだに外国人選手を差別的な表現で扱う日本のプロ野球とは深いところで差がある。

 朝青龍は、「国技」相撲界での活躍に満足するだけでなく、母国モンゴルの子ども達のために様々な努力を忘れなかった。ピースキャンドルが印象的な平和のイベントも、毎年行ってきたと聞いている。そういう志を持った力士が日本人力士や相撲協会のお偉方にどれだけいるのか、私は聞いてみたい。モンゴルは急速な市場経済の導入が様々な亀裂をもたらしている。その母国を離れて成功を収めた人間が母国をしのび、貢献したいと考えるのは人間として自然な感情だ。ドミニカ出身のメジャー・リーガー、サミー・ソーサの美談は素直に受け容れる日本人が、モンゴル人力士になると掌を返すのは、人種偏見以外の何者でもない。横綱になっても帰化しない(難民さえ受け容れないこの国の人が発言しているとはお笑い草だ)とか、競技に関係ないことまで持ち出していじめる相撲協会や日本人の体質が、本来なら、正々堂々と談判すべき交流行事への参加も今回のような屈折した行動に追い込んでしまったような気がする。

 私は、断固朝青龍関を擁護する。

【追記】このことに関して、当事者の相撲協会関係者はしょうがないとして、ジャーナリズムはどうして声を挙げないのだろう?といぶかしく思っていたら、「オーマイニュース」にやっと見つかりました。以下の記事に100%賛成です。(2007.8.5)

■≪なぜこんな処分が許されるのか?朝青龍の「軟禁処分」は憲法違反だ≫
生田正博(2007-08-04 18:30)
http://www.ohmynews.co.jp/news/20070804/13763

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