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2007/07/04

死刑で応えるのが正義なのか

 近代国家が、紛争の解決に、裁判という面倒な手続きを採用しているのは何故か、考えたことはあるでしょうか。

 正義は不変ではなく、まして一個人に帰属するものでもありません。積み上げられた原則に普遍性がないという意味ではありませんが、それを個々の問題に適用するには、必ず個別の判断が必要になります。完全な人間というものがいない以上、その時々で最善の判断をするしかありません。不完全ながらに最善を目指すには、科学的検証と、異なる立場の人間による意見を時間をかけてつきあわせる努力を避けては通れないのです。もし結果が最初から決まっていて、その執行に国家がお墨付きを与えるだけの裁判なら、それは人間の知性に対する侮辱に等しいと思います。「人権侵害の被害者に真の正義をもたらすためには、被疑者に対する公正な裁判が不可欠」という立場は、あらゆる場合に共通した原則だと、改めて強調したいと思います。

 完全な判断と言うのが、理想上にしか存在しない以上、人間が他者に合法的な死を求めることもできません。人の生命を奪うのは、少なくともそれ以外の選択肢があり得ない場合を除き許されることではありません。それならば、理不尽な殺人の報復に死を持って応えるのも同様に許されないことなのではないでしょうか。

 どれだけ悲惨な死を与えられても、その死を後から何かで埋め合わせることは絶対にできません。残された者が、その怒りや悲しみを爆発させるのは当然としても、それを殺された者、死んだ者を主語にして語るのは、わたしには傲慢に感じます。今年父を失ってからは特に。残された者が加害者に報復してやりたいという感情は理解できます。しかし、それを個人の感情を超えた万人の正義に安易に転化してしまう風潮には大きな不安を感じざるを得ません。そうした結果がどういう世界を現出するか、わたし達はイラクで今目撃しているではありませんか。

 殺人は許されません。暴力も同様です。苦境に立たされた経歴が犯罪自体の深刻さを軽減できるわけではありません。しかし、わたし達が殺人や犯罪に関与していないのは、偶然に過ぎない、ということも謙虚に見つめなおしてほしいのです。生まれつき殺人者として生まれてくる人間がいないように、自分が生まれる国家、時代、家庭環境、そのほかが異なれば、決して殺人を犯さないという人間はいないと思います。

 殺人は取り返しがつかないからこそ、わたし達は、弱い人間が殺人を犯さなくても済むような世界づくりに目を向けるべきです。シンディ・シーハンは、息子を殺したイラクの武装組織に報復を望んではいないし、ブッシュを死刑にしてほしいとか主張したことはありません。そういう主張をすることは、きっと一時的な自己満足にはなるでしょう。しかし、彼女はもっと厳しい、本質的なたたかいに身を投じたのです。彼女自身がアメリカと言う戦争遂行国家から自立し、他の米国の母親も自立させるためのたたかいに。

 一部の殺人事件の裁判に対し、無責任な野次馬がにわか正義漢を気取って、被告の弁護士に脅迫を加えたり、匿名でなじったりするのをわたしは許すことができません。しかも、最近の裁判では、物的証拠よりも世論迎合を優先して、真実より結審のスピードを評価する傾向があるように感じます。死刑廃止論をキレイゴトと嘲笑する人たちに、粘り強く真実を求める弁護団を上回る勇気を見たことはありません。

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