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2007/05/30

ありがとう、シンディ、わたしはあなたのひたむきさを忘れない

「ケーシーの死は無駄だったのです」「さようなら、アメリカ。あなたは私の愛する国ではありませんでした」なんと悲しい言葉でしょう。声を詰まらせるシンディの姿を見て、わたしも泣きたい気持ちでいっぱいです。

 2005年8月以来、ひたむきな姿と原則的な発言でアメリカの平和運動を励まし、ブッシュを追い詰め、平和を願う世界中の人々の希望だったシンディ・シーハーンが、28日突然、運動からの引退を表明しました。

 彼女が外部に向かって最後に遺したメッセージの原文は以下で読めます。

 http://www.afterdowningstreet.org/?q=node/23018

 週末までに全訳が流通しなければ、わたしはこのメッセージ全文を仮訳で提供することを約束します。

 日本が危機を深めれば深めるほど、わたしは彼女の姿に勇気付けられてきました。その人を忘れない限り、人が本当に死ぬことはない、と訴え、無名の市民が国家とわたりあうために、キャリアのある運動家以上に豊かな提案を続けてきた彼女に、「反戦の母」などと言う紋切り型の比喩は似合いません。読売は「最近は座り込み一辺倒の活動が飽きられ、影の薄い存在になっていた」と報じ、彼女の実績をまるで一時の流行のように軽んじていますが、情けないことです。

 わたし達が見てきたのは彼女のエネルギッシュな姿ばかりでしたが、引退を決意するまでに様々な葛藤があったのでしょう。ブッシュの支持率が下がり共和党が大敗しても、イラクから手を引かないばかりか、イラン攻撃を一致して支持するアメリカ。自分の生き方に誠実な人であればあるほど、そして運動を客観的に評価する理性を持つ人であればあるほど、無邪気に夢物語の様な運動を呼びかけられなくなるのだと思います。

 わたしの好きな米国の市民グループ"TRUE MAJORITY(真の多数)"

 http://www.truemajority.org/index.php

が、シンディへをねぎらい、彼女が故郷に戻っても、米軍を撤退させ平和を実現するまでわたし達は努力し続けることを伝えるサイバーアクションを始めました。

 http://act.truemajority.org/o/1/t/3/petition.jsp?petition_KEY=7

 彼女が文字通り体をはってわたし達に与えてくれたものを無駄にしてはいけません。彼女の無念さを共感することは、日本のわたし達自身も正直に振り返ることにつながると思います。一言でも結構です。上記フォームから、シンディにメッセージを送ってください。

 TRUE MAJORITYがサンプルとして用意した英文を仮訳しました。

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 シンディ。

 あなたが平和運動から引退すると発表したのを聞き、わたし達は、深い悲しみに沈んでいます。しかし、わたし達はあなたの決断を理解し尊重します。

 あなたは、何十万もの人々を励ましてきました。わたし達は心から精一杯の感謝の気持ちを捧げます。

 わたし達は、TRUE MAJORITYの一員として、あなたが困難な事業を始めた時からずっと、あなたを支持してきました。この破壊的な戦争を終わらせて、兵士を家に連れ戻すために、行進や決起集会に結集し、時間やお金を惜しまず、政府に繰り返し呼びかけました。

 わたし達は、戦争を終わらせ、男性も女性も無事家につれて帰るまで、さらに一生懸命活動することを約束します。あなたの何年もの献身的な努力に感謝し、あなたとご家族の幸運を祈ります。

 安らかに。

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(by どすのメッキー 30 May 2007)

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2007/05/29

自殺を選択肢に用意するのは誰? 松岡農水相の自殺について

 日本では、この10年近く、交通事故死者数を上回る毎年3万人以上の方が自殺している。人口10万人あたりの自殺者で表される「自殺率」は25.5となり、アメリカの2倍以上だそうだ。しかも最近は分別のある中高年の自殺者が増えている。その理由の約半分は健康で4分の1が経済的な理由という統計があるが、この抽象的な区分だけではその苦しみは分からない。

 世界に君臨する経済大国でありながら、2005年にOECDが発表した貧困率は調査対象27国中ワースト5、真面目に働いても1食40円のうどんしか食べられない夫婦がいる。人口当たりの医師数は2020年にワースト1に転落するという予測もある。経済が、もう少し公正で公平であれば、「健康」を理由に自死を選ぶ人はこんなにはいないだろう。「経済・生活」が自死の原因になるのは、この社会で働く者が報われず、あるいは報われる日が来る希望の持てないあらわれである。子どもからお年寄りまで、交通事故珍しくなくなってしまったように、この国では自死が珍しくなくなった。その中で、自死の重みに人はどんどん鈍感になっていく。

 松岡農水相は、いかなる思いで真相究明よりも自死を選んだのだろう。緑資源機構の前身、旧森林開発公団の山崎進一元理事は松岡農水相の自死の報道をどういう思いで聞いていたのだろう。彼らの自死は報道されない多くの自死と同じではない。生活保護を打ち切られ、たとえ自死しなくても生存の意思を否定された人と同じに扱うことはできない。

 安倍首相は、松岡農水相の自死を聞いて、また遠くを見ながら醒めたコメントを残した。加藤紘一氏の自宅が放火されたとき、フセイン元大統領が処刑されたとき、そして伊藤長崎市長が銃撃されたときと同じだ。自死を選んだ者が「安らかな顔」をしているはずがない。彼の頭の中で、一人の人間の死よりも参議院選挙の票読みが優先しているのは明らかだった。

 松岡農水相がその地位を利用して利益を貪っていたことは疑いようがないが、それを明らかにして地位を失っても生活していけないことない。彼のこれまでの対応に飽き飽きしていても、彼の遺書の文章のように「身命を持って責任とお詫びに」替えよ等と要求した国民はいないだろう。仮にいたとすれば、それはむしろ自民党内なのではないか。印象だが、「安倍総理 日本国万歳」で結ばれる国民宛の遺書は、妙に計算されていて、思いつめられた文章のようには見えない。しかも彼は丁寧にあて先別に6通もの遺書を遺している。少なくとも発作的に死を選んだのではなく、時期も方法も計画していたことは間違いない。派閥会長の伊吹文明文科相は、相談する余裕もなかったのかと語ったが、相談する時間は十分あった。実際に相談もしていただろう。「国会対策上、黙っているのが一番だと言われているし、今は自分はしゃべれない」と告白していたという鈴木宗雄議員の証言からしても、「安倍総理 日本国万歳」の結語の行間に、真相公開の道が彼の意思以外のところでも閉ざされていたと感じるのだ。

 6月からは住民税も増税される。国民に対する負担増は何がどうだったか覚えていられないくらい次々にやってくる。働いても働いても、毎日インターネット・カフェで寝泊りせざるを得ない若者は、日本の舵取りをするものが使うダブルスタンダードを見破る余裕も奪われていく。多くの若者の未来を犠牲に超え太った政治家が、苦しみのはけ口を教育の破壊や憲法の改定に向けさせようとしている。サルコジ大統領をドゴール以来の高支持率で船出させたフランス国民にも、同じような行き場のない苦しみを見る。

 しかし、小市民には夢の様な栄華を誇った政治家や、経営者でも、国家の論理の前には、自死を強いられるのだ。このシステムを逆回転させなければ、たとえ戦争に巻き込まれなくても、わたし達は累々とした自死を踏みつけ、やがて自ら倒れるときを迎えるだろう。

 死を選ぶ毎日100人近い人々の人生を「自殺」という言葉で片付けて欲しくない。彼らが土壇場で死を決意するまで、それぞれの人生は輝いていたはずであり、彼らの多くは自ら死を選んだのではなく、選ばされたのだ。

 松岡農水相や山崎元理事の死を同列には論じまい。しかし、彼らも死を選ばされた存在ではないか。都合の悪いことは、何か大きな力が働いて抹殺する、それが当たり前の社会になりつつあると思うと戦慄を禁じえない。

 安倍首相は、この期に及んでも、一切の疑惑を否定し、わたし達が一切を忘れるか、あわよくばもう一度松岡農水相の死を利用して弔い合戦をしようとさえしている。断じて許すわけにはいかない。

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2007/05/19

氷原に映る生命の悲しさと美しさ 「白くまになりたかった子ども」を観て

 デンマークの巨匠ヤニック・ハストラップ監督のアニメーション映画「白くまになりたかった子ども」を観る機会を得た。観終わった後、現実の騒々しさから突き放された深い静けさに浸った。昨年観た「キリクと魔女」といい、ヨーロッパのアニメーションに彼らの持つ思想の底力を見る思いがする。

 イヌイット達が暮らす極北は、本来生き物を受け付けないところだ。四季の恵み豊かな日本に暮らすわたし達にとって、その風景や流れる時間はあまりに単調である。屋上屋を重ねたような複雑過剰な文明の中で、わたし達が生き物としての自分を発見する機会は少ない。しかし、一面白色の氷原の上では、生命というものが、頼りなく、そしてグロテスクな、生の姿のまま投げ出される。ひとつでも条件が欠ければ死に直結する氷原で、何のために生きるのかといった抽象的なことに思い巡らす余裕はない。大きく美しい熊は、そうした世界でも生命の火を燃やし続けるよりどころとして、偉大に見えたに違いない。昔から、世界各地で熊は神としてあがめられ、人間と交歓する物語がつくられてきた。

 しかし、その熊とて、生命の悲しさという点では、弱弱しい人間と少しも変わらないことを映画は残酷に描き出す。今の日本のように、人間中心の開発の邪魔者としてでもなく、人間を超越した神としてでもなく、過酷な世界で生き続けなければならない対等の存在として、熊は人間と交流し、そしてたたかう。譲り合うことのできない思いのぶつかり合いの下で、少年は自分自身を見失いかける。

 しかし、物語は、熊や人間一人ひとりを安っぽい善悪で裁くことをしない。普通に考えれば人間の子どもを奪った熊の父親が間違っているのであり、少年が人間の子どもとして育てられるのが幸せだと結論してしまうだろう。だが、人間を含めた生き物は、理屈では律しきれない感情や行動をとる場合がある。実写を上回る緻密な性格描写が、理屈を超えて、少年が熊になりたいと願う切実さにわたし達を共感させる。

 勇敢な人間を救うのが鯨の掟であり、ムリを承知で手を差しのべるのがジャコウジカの掟であったように、ぎりぎりの最後の判断においては、新しく生まれてくるあるいは育っていく生命を優先させるのが、すべての生き物の掟ではなかっただろうか。子どもを失った悲しみを熊と共感できた時、人間の親も、少年の自由への願いを受け止めることができた。凍てつく星空に消えていく少年を見送る両親の表情は悲しく、美しい。中島敦の「山月記」をひくまでもなく、生き物は、与えられた運命を理由も分からずおとなしく受け取って生きていかなければならない。しかし、生命と言うものは、何かの生命を犠牲にしなければ受け継いでいけないものなのだろう。そこを納得できた時にのみ、悲しみは幾分かは癒されるのだと思う。

 少年が本物の熊になる、すなわち自由を獲得するために挑戦しなければならなかった最後の試練が、強大な力を身につけることでも、勇敢さや忍耐を示すことでもなく、孤独に耐えることであったのは象徴的だ。氷原でなく、コンクリートに囲まれたヒートアイランドで暮らすわたし達も、孤独と無縁ではない。むしろ、大勢の人にもまれていた方が一層孤独を感じることさえある。

 このアニメーションはCGの技術を駆使してはいるが、それを前面に押し出してはいない。あくまで人間の手で描いた筆の感触を残している。サクセス・ストーリイで結論を押し付けることのない見事な演出は、極北の氷原と言うキャンバスの余白を通して、自分自身の心の奥を静かに見つめなおさせるかのようだった。

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2007/05/17

無関心の総決算としての改憲

 安倍首相は、国民投票法を成立させたのがよほど嬉しかったとみえて、早速メルマガで取り上げています。

 http://www.kantei.go.jp/jp/m-magazine/backnumber/2007/0517.html

 「国会において精緻な議論が行われ、立法府としての責任を果たされた」とはよくも言えたものですが、彼はもともと議論全般に対し求めるものが少ないのでしょう。その後行われた民主党小沢代表との党首討論でも、受け答えがてんで不誠実です。小沢代表の質問も靴底から足の裏を掻いているみたいに歯切れが悪いですが、不利になると背後に控えた味方を振り返り「そんなにおかしいでしょうか?」と茶化すなど首相たる立場の者の態度ではありません。首相たるもの、たとえ悪玉でももう少し横綱相撲の議論ができないものでしょうか。

 そもそも、山積している具体的な問題を横においても、何故改憲の手続を性急に決めなくてはならないのか、上記メルマガでも明確な説明はありません。「憲法は60年前のままでよいと思っている人は、どれほどいるのでしょうか」と、その責任を国民にさりげなく転嫁している始末です。こんな不明確な理由で変えていいものではありません。

 改憲手続きの検討に先立って、参議院憲法調査会は5年にわたる議論をまとめ、「共通の認識」という位置づけではないものの、各党の意見を整理し、共同発表に合意した内容として以下に公表しています。

http://www.sangiin.go.jp/japanese/kenpou/houkokusyo/hb/hb03_01.htm#0102

 そこでは、憲法の三大原則、とりわけ平和主義について、「第一次世界大戦後、不戦条約等において成文化され、広がったもので、第二次大戦後の国際連合がその確立に大きな役割を果たし」たとし、「現行憲法は基本的に優れた憲法であり、戦後日本の平和と安定、経済発展に大きく寄与してきたと高く評価する意見が共通であった」と述べられています。ここで「平和主義」の定義は曖昧ですが、安倍首相が金科玉条のように繰り返す、GHQから押し付けられた不合理なものという発想は、参考意見のひとつとしてもあげられていません。

 自民、公明、民主、共産、社民、という立場の違う政党が時間をかけてこういう結論を出しているわけです。「立法府としての責任」を尊重するなら、手続き的にはこれを無視して改憲を論じることは許されないはずです。しかし、国会内に公式に設置された機関の見解を無視する政府が、国民個々の意見を尊重するはずはありません。法律が衆議院通過後、衆議院で議論したことはもう取り上げるな、と言ってみたり、中央公聴会も開かず採決に踏み切ったのは、その証拠です。

 そして、一見まともに聞える「憲法は、私たち自身のものです」という言葉ほど、立憲主義の無理解を象徴しているものはありません。「憲法は、私たち自身のものです」という言葉は、国民であるわたし達が政府に対して突きつける言葉であって、政府がわたし達に啓蒙する言葉ではありません。正確に言うなら、憲法はわたし達国民のものではあるけれども、安倍首相たちのものではありません。政府は改憲を誘導する立場にはなく、国民主導で決めた内容に、粛々と従うことが許されているだけです。

 憲法を変えるとしても、内容よりも先に、変えることの是非だけが話題になるのはおかしいのです。安倍内閣の目指す改憲の本丸が平和主義であることは明らかですが、安倍内閣が「誠意」のある内閣ならば、最初に投げかけるのは平和主義の評価であり、改憲の是非ではないはずです。しかし、哀しいかな政治意識の低いこの国では、何か国が良くなるなら、賛成する、といった他人任せの「改憲賛成」が溢れています。どうしてそんなに易々と白紙小切手を切れるのでしょう。憲法を変えてその恩恵にあずかるも国民なら、失敗して泣きを見るのも国民です。

 国民投票法が押し切られた原因は、安倍内閣の暴走や、マスメディアの援護射撃などいろいろあるでしょうが、根本は戦後の国民の無関心であり、今その総決算として「改憲」がとうとう具体的日程にのぼったというわけです。

 おそらく、何らかの形で改憲が発議されるのは避けられないでしょう。国民投票法が成立した手続きは民主主義では認められないものですが、そこにこだわっている時期ではもうないと思います。むしろ、単純な改憲拒絶ではなく、積極的に改憲議論に飛び込んでいくことによって、憲法議論を政府主導から国民主導に引き戻すたたかいに切り替えるべきだと思います。

 

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2007/05/04

ジョージ、シンゾー、呼び捨ての「友人」度

 安倍首相が、就任後初めての渡米となった先の首脳会談後の声明で、ブッシュ大統領をいきなり「ジョージ」と呼び捨てにしたのには驚いた。ロン、ヤスが最初だろうか、日米の首脳が互いをギヴンネームや愛称で呼ぶのが通例となったが、公式のスピーチで使われたのはあまり覚えていない。ブッシュ大統領の提案らしいから、米国市民の耳には快く聞えるのだろうか。

 あるいは、安倍首相の目指すべき「美しい」日本語の文脈で明らかに浮いていた「ジョージ」という表現は、日本が資本の構造のみならず文化面でもいっそう脱アジア化して、米国に従属するという意思表示だったのかもしれない。安倍首相は、小泉政権時代に冷え込んだ日中関係改善のために、「最も重要な同盟国」米国を置いて最初の外遊先に中国を選んだが、かえってその不自然さが軸足の本当の位置を炙り出してしまった。温家宝首相来日後、胡錦濤主席が来なかったのは「極めて非常識」と中川政調会長が非難したのは、本来の軸足をずらしたことに対する安倍政権の過剰な自意識の表れだろう。一方で、日本は日米だけでなく、オーストラリアはじめ共同軍事訓練のパートナーを増やし、NATOの準加盟国の位置を確保するにいたっている。

 安倍首相は会談前に、国家間の協力だけでなく、首脳間の個人的な友人関係をも構築したいと語った。個人的な友人関係など公的な場で目標にすることではなく、むしろ適度な緊張関係を保っていてくれたほうが有難いが、ジョージ、シンゾー、と呼び合う二人は本当に友人になれたのか。日本は米国に対し、集団的自衛権を検討する以前から既成事実として「同盟」という言葉を使うようになり、小泉政権以降、その同盟を他の国際関係を犠牲にしてでも護らなければならないものと明言するようにさえなった。しかし、親分子分の関係は歴然としている。

 イラクでもアフガンでも治安が安定する見込みがまったく立たず、有志連合が次々脱落する中で、米国の軍事負担は膨らむ一方だ。ブッシュ大統領は、今頃イランやベネズエラの「民主化」に取り組んでいるはずだったのだろうが、とても手が回らない。軍事産業を潤すだけのMD開発の名目も予算もない。忠誠を尽くしたブレア首相も間もなく辞任する。そういう状況で友人に望むことは応分のコスト負担しかない。俺達トモダチだよな、とすごんでカツアゲする図が目に浮かぶ。

 カツアゲしてその恩を覚えている不良はいないから、今回共同声明に拉致問題が折り込まれたのも、決して積極的な役割を期待できるものではなく、安倍首相がそれしか言わないためリップサービスで、ということではないか。北朝鮮に対する姿勢も日米で温度差が見え始めている。

 しかし、そうやって「友人」日本に対し、米国の思い通りになるよう骨抜きと体制変更を進めてきた米国にも計算違いがあった。日本の防衛キッズ達は、米国との健全な同盟関係を望む保守本流を蹴散らして、戦後体制の否定にまで踏み込もうとしている。小泉政権後半から、各クオリティペーパーが、彼の靖国史観を批判する社説を掲載するようになったが、4月30日の米国ニューズ・ウィークは、表紙の安倍首相の顔に「FACE-OFF(対決)」という見出しを重ね、警戒すべきナショナリストとしての「シンゾー」像を描き出している。「最も重要な同盟国」の一方が就任後初めて訪れた歓迎にしては異常だ。

 日本軍性奴隷について、安倍首相が事実を湖塗する姿勢をとったこと、河野談話を引き継ぐといいながら結局軍の責任を認めていないことが、交渉開始前から日本側の大きな弱点になったのは想像に難くない。現在一国主義の無茶苦茶をやっているとはいっても、米国には、大きな犠牲を払って西欧的世界観を基礎にした人権意識を築いてきた伝統がある。議会で証拠が明白になった卑劣な犯罪を大目に見るほど鷹揚ではないし、それを通して第二次大戦で米国が果たした役割を否定されるのはますます認められないはずだ。安倍の「美しい国」構想は、「友人」米政権にとっても受け容れがたいものとなりつつあり、それを一定認めさせるには他の部分で大きな譲歩を迫られる(それは例えば牛肉検査かもしれないし…)のは必至である。

 ジョージ、シンゾー、の芝居がかった呼び方は、日米のもろい「友人」関係を互いに意識しながら、共同会見で誤魔化すための茶番に過ぎないように思える。

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2007/05/03

押し付け論の矛盾を乗り越える実践的憲法主義を!

 憲法施行60周年を迎えて、世論調査が盛んです。しかし、憲法全体について漠然と改定の是非を聞き、その割合に一喜一憂することにどれだけの意味があるのでしょう。国民が今の憲法を障害と感じる問題が具体的に発生しているのなら、それについて問えばいいし、そうでなしに一般論的に聞かれた問いに答えるのは、何の政治的意思表明にもなっていないはずです。

 憲法は、その基本的精神について、「これは、人類普遍の原理であり、この憲法はかかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する」と前文で述べています。部分的な「改正」は想定されていても、憲法の拠って立つ場所自体を変えてしまうような全面的「改正」は認められていません。世論調査で「改正」を支持する回答者も、現憲法の主権在民、民主主義、平和主義を変えて欲しいという人はごく少数でしょう。その証拠に、個別に9条改憲の是非を問うと、最も改憲に積極的な読売新聞の調査でさえ過半数が反対なのです。

 国際貢献と言う名の海外派兵への抵抗が弱まり、昨年末の自衛隊法改定によって海外任務がこっそり本来任務になった今でさえ、9条改憲への抵抗は根強いです。政府与党が目指す改憲の本丸はもちろん9条ですが、そこを第一の理由に改憲の支持を集めることは依然困難なことは政府も理解しているようです。そこで安倍首相が教条的に持ち出すのが、押し付け憲法論です。4月24日自民党の集会でも、安倍首相は改憲の最大の根拠のひとつとして「占領時代につくられた現行憲法を起草したのは、憲法に素人のGHQの人たち」ということを強調していました。しかし、日本国憲法が、抽象的に人類の平和思想のひとつの到達点であるというだけではなく、鈴木安蔵ら「憲法研究会」が独自に熟考を重ね提出した草案がGHQに感銘を与え、大日本帝国憲法から脱却できない日本政府にGHQが提案した憲法案に大きな影響を与えたことは、紛れもない事実です。大日本帝国憲法下でも先進的な思想を発展させてきた日本の法律家こそ、日本の誇りし、次代に伝えていくべきものではないでしょうか。特に9条については、当時の国会で共産党の野阪参三の質問に対し、吉田茂首相が曖昧な解釈を許さない擁護姿勢を明確にしています。

 詳細は、たとえば、国立国会図書館の以下のページ
http://www.ndl.go.jp/constitution/
や、小西豊治著「憲法『押しつけ』論の幻」
http://shop.kodansha.jp/bc2_bc/search_view.jsp?b=1498509
をご参照ください。

 安倍首相が改憲理由の筆頭に押し付け論を持ち出すのは、彼らが目指す全面的「改憲」にまともな理由が見つからないことの裏返しに他なりません。

 また、「押し付け」の方向性も重要です。長い戦争で疲弊し、近隣諸国に甚大な被害をもたらした国民は、もう戦争をするな、武器を持つな、という約束を「押し付け」どころか、むしろ解放ととらえていたのではないでしょうか。押し付けられて困ったのは、敗戦後も旧体制を維持して戦争や領土拡張の出来る国にしたい一部の支配者だけです。

 また、押し付け憲法論を振りかざして改憲を主張する層と、イラクに武力介入して国を崩壊させ、選挙や憲法を「押し付け」た米国の侵略行為を支持する層が、ほぼ重なるのも奇妙です。まず改憲ありきの主張には、かくも矛盾が多いのです。

 イメージ優先で改憲が日程に上るのを阻止するには、わたし達も、単に教条的に護憲を叫んでいたのでは不充分です。改憲派のこうした矛盾を論理的に分かりやすくついていかなければなりません。貧困や環境問題やテロの増加など今起こっている問題が、「戦後レジーム」をぶち壊せば少しはマシに解決するだろう、という幻想を打ち砕く対案を提示できなければ、形だけ9条を護ることができても、わたし達が安心できる世界は訪れません。

 今の世界が、9条がつくられたときに想定された世界と変わっており、その変化がわたし達が予想するよりもずっと早いことも認めなければなりません。世界規模の資本が、これまでは人間を統治する最高組織であった国家さえ従属させて、地球規模での格差拡大と流動化を招いています。ブッシュ政権の一国主義や、安倍政権の復古的国家主義は、資本家の要求に持ちつ持たれつで、結果としてそうした流れと当面合致しているように見えても、それ自身、巨大資本の論理の前でいずれ瓦解する可能性を持つものです。グローバルな企業がその利潤より優先する愛国心などありません。そのとき、わたし達の生活はどうなっているのでしょうか。

 利益を生み出すことが最高のモラルとされる社会への志向に対抗できるのは、9条をはじめとする共生の思想しかないのではないでしょうか。現実の問題に対し、9条から導かれる提案を実験し、その結果を総括して再びより高次な提案を繰り返す。その実践的な取り組みが求められています。

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2007/05/02

反知性が溶かす地球の氷

 目的が正しくても事実の検証を軽視するのは、知性の堕落でしかない。各個人の経験や知識は量も限られているし、分野も当然偏りがあるから、それを謙虚に認める姿勢がないと、本人も気付かないうちにその罠にはまってしまう。

 日テレ系の解説者は、どうして落ち着きのない興奮したしゃべり方をするのだろうと思っていた。それに台本どおり相槌を打つアナウンサーを加えた光景はまるでTVショッピングだ。

 今朝TVをつけたら、偶然ズームイン朝スーパーが映り、看板解説者S坊氏が口角泡を飛ばしていた。新聞切り抜きチェック(民法で流行のこの方法自体、TVの報道能力の欠如を示すものでしかないが…)の地球温暖化の話題だった。

 彼は、北極の氷が解けて海面が上昇するというのは大ウソだと得意げに話していた。これは確かに本当だ。北極の氷山は厚さ10mくらいの氷塊が海面に浮いたもので、「氷山の一角」という喩えがあるとおり、ほとんどが海面下に沈んでいる。その沈んでいる部分が押しのけた体積に相当する水の重さと、氷山全体の重さが釣り合っていることになる。氷山が溶けて水になれば、水は増えるが、押しのけられる量も減るので、結果として海面の高さは変わらない。喫茶店で出されたアイスコーヒーをほおっておいてもコップから中身があふれ出すということはない。

 しかし、S坊氏がアルキメデスの原理を本当にわかって説明していたようには思えない。その後に持ち出した視聴者からの反論が的を得ていないし、人間が早口でまくし立てる時は、詳細を聞かれるのを避けるときと決まっている。

 問題を指摘するにしても、マスコミ人ならば、結果として世論にどういう影響を与えるかに責任を持った指摘の仕方をしなければならない。北極は南極と違い大陸がないため、氷塊が海に直接暖められ崩壊が目立つ。そこから指摘された誤解が始まったのだろうが、北極の氷が溶けてしまうということが、急速な温暖化の指標になることに間違いはない。大陸の上に乗っかっている南極の氷が溶け出せば、事情は違う。S坊氏の中途半端な解説を聞いて、ああ、北極の氷が溶けても大丈夫なんだな、と安心する方が更に被害が大きい。

 太平洋の島々のみを国土とする国々がある。その美しい国々は、最高海抜が数メートルという国もあり、珊瑚礁のもろい土壌では地下からの水の浸食の影響もあり、国土消失の深刻な危機に直面している。しかも、彼らが排出している二酸化炭素の量は、大量消費国家の排出する量の統計誤差にも満たない程度である。(もっとも、島内では旧式の自動車が整備もされずに走っていたりして、意識的に二酸化炭素を抑えているわけではない)ツバルではすでに自主的移住が始まっている。戦争でもないのに、永久に国土を失い、しかも自分達の力ではどうにもならない悲しみをS坊氏のご高説から窺い知ることはできない。

 さて、S坊氏が温暖化を話題に取り上げたきっかけは、温暖化による氷河の溶解で大陸を押さえつける重しが減ることによって、米アラスカ州南東部で地殻が急激に隆起していることが分かったというニュースだった。特に強調していたのは、記事末尾にあった観測チームの孫文科・東京大准教授のコメントを引用して、地形が変わることによって、「地球の自転速度にも影響を及ぼす恐れが」あるという点で、温暖化の影響が、こんなところにも!と、自らの目の付け所にご満悦である。

 ところで、地球の自転速度は決して一定だったわけではない。大気との摩擦や、月の潮汐力で、少しずつ遅くなっており、数十億年前には1日がわずか6時間だったこともある。最近は平均して百年に千分の1秒程度変化しているというのが定説である。その他、地球規模の大地震もわずかながら自転を変化させる。たとえば、2004年のスマトラ沖地震では、1日当たり約百万分の3秒、自転が早くなったと計算されている。この地震は、この百年で4番目と言う規模であり、甚大な被害をもたらしたが、それでも自転に与える影響は、日常生活や人間の経済活動を再考しなければならないレベルではない。今回観測された地形変動が自転にもたらす影響が定量的にどのくらいのものなのか不明だが、実感できるレベルのものではないだろうし、孫准教授のコメントの意図もそういうことではないと思う。

 おそらくS坊氏は、地球の自転速度が絶えず変化していると言う事実をご存じなかったため、コメントを必要以上に重大視してしまったのだろう。北極の氷で自らの科学的知見の高さを披瀝した積もりなのだろうが、付け焼刃はすぐにばれる。

 マスコミの著名な評論家の科学的知見や責任感はこの程度である。批判精神と同時に、自分だけが特別なことを知っているという誘惑に打ち勝つ謙虚さを常に持っていないと、とんでもないところに連れて行かれてしまう。

 温暖化対策に待ったなしの状況は、いささかもかわるものではない。

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