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2007/04/25

激高する場面が間違っている安倍首相

 城尾容疑者と安倍首相の元秘書をめぐる週刊朝日記事について、安倍首相は、「言論によるテロではないかと思う。これは報道ではなく政治運動ではないかとすら言いたくなる」と見栄を切ったそうです。

 ばかばかしい。

 週刊朝日の記事を読んでいないので、記事の信憑性についてはコメントを控えますが、この人、激高する場面を間違えています。自分は言論弾圧をやりたいだけやっておいて、都合が悪くなると「言論によるテロ」(これも矛盾した言い方です)などと直ぐ誇張した表現で脅しをかけようとする。「これは報道ではなく政治運動ではないか」っていう怒りかたも意味分かりませんね。彼の頭の中では「政治運動」=「言論によるテロ」なのかしらん???

 疑惑を書かれても、安倍首相はこうして怒りを表明でき、メディアを使ってあっという間に伝えることもできます。安倍首相は生きており、報道は、安倍首相の言葉を借りても所詮「言論によるテロ」にすぎないからです。

 故伊藤市長は、何か言われても、その後の長崎や日本の行く末を案じても、もう何も発言することも反論することもできません。定義どおりの「暴力によるテロ」「実力行使によるテロ」で命を不当に奪われてしまったからです。

 安倍首相は、この埋めようのない差がまったく分かっていません。

 今これだけ怒るのなら、伊藤市長が撃たれたときなぜ怒らなかったのか。野党は、これを追求するだけで国会を止められるはずです。

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2007/04/22

空虚のきわみ 伊藤一長氏殺害事件に対する安倍首相の発言

 最初に、伊藤一長氏の生前のご努力に敬意を表し、謹んで哀悼の意を表します。

 伊藤長崎市長の銃撃のニュースを聞いた時、本島前市長の銃撃事件や、昨年の加藤紘一氏宅放火事件を連想した人は多いと思います、というか、連想しない方が不自然でしょう。市民派市長として国立市にとどまらず全国の建設的な運動と連帯して努力された上原公子市長が、8年間ことごとく上原たたきに終始して議会に対し「議会は私と対抗してあるのではない。議場は市民の幸せを願って論争する場であることを、もう一度考えてほしい」と抗議の3選不出馬を表明し、今この国を覆っている黒い動かしがたいものの大きさに憂鬱になっていた矢先でもありました。

 本当に市民派の首長を誕生させるのは難しい。しかし、上原市長や最近では田中前長野県知事のように、利権構造に執着した議会に潰される。さもなくば、最後には暴力を行使される。こういう嫌らしい構造は、国政から地方自治、果てはPTAなどにまで浸透し、民主主義という言葉を空念仏のように変質させてきました。

 ところが、事件発生十分後に安倍首相が発表したコメントは、民主国家の行政を預かる長としての責任も、人間としての温かみもまるで感じられないものでした。わざわざ記者会見を用意した加藤紘一氏とは対照的です。事後野党から批判が集中しても「こういうことで互いを非難するのはやめた方がいい。真相をまず究明するというのが正しい」と居直りました。イラク戦争といい、日本軍の性奴隷の問題といい、安倍首相は「真相を究明する」という指示が最も似合わない政治家です。安倍首相は加藤紘一宅放火事件に対しても公式な非難声明は出さず他人事の様な対応でした。その時も今回も、私達が第一報で連想したような、安倍首相の路線を支持する政治的テロであることを懸念して、咄嗟に言葉を選んだのではないかとさえ疑いたくなります。しかし、選挙運動中の候補者を問答無用で殺害する行為を正当化する理由などあるはずがありません。民主主義に対する危機感の無さは、自らそれを護るつもりがないことの表れです。

 この国が右傾化する中でも、長崎の市長の第一の役割を平和の建設ととらえ、とりわけ核兵器廃絶については政府の様な究極の目標ではなく、緊急の課題であることを訴え続けた伊藤一長氏の発言には、広島の秋葉市長の発言とともに、私は何度も励まされ、この国にもこういう首長が支持を集め続けていることに希望を見出してきました。

 城尾哲弥容疑者は、これまでも行政や市民に対し、ゆすり、たかり、嫌がらせを繰り返しており、雇った弁護士に「市民に嫌がらせをするのが任侠のやることか」とたしなめられる札付きの人物だったようです。それにしても、工事を受注できなかったり、車のバンパーをこすった逆恨みだけで首長の殺害に及ぶとはあまりに飛躍しすぎです。現代の暴力団は基本的に金儲けの打算でしか動きませんから、本当の目的は別にあるのでしょう。彼の所属する水心会は事件後いったん解散しましたが、すでに同じメンバーでやはり山口組傘下の暴力団として再結成する動きもあるようです。「真相究明」を弔い合戦で幕引きさせては、一長さんが浮かばれません。

 長崎県議会は20日、臨時会を開き、国や県、警察当局に対し、意見書は「今回の事件は、民意によって選ばれた市長を凶弾によって封じようとするあってはならない極めて卑劣な犯罪で、自由と民主主義に対する重大な挑戦であり、断じて許されるものではない」と事件の真相解明や再発防止策の徹底を求める「暴力の根絶に関する意見書」を全会一致で採択しました。その後、関連自治体でも同様の意見書や決議があがっています。しかし、これを長崎県だけの問題にしてはいけません。

 公共の施設で行われる市民の集会や学習会が右翼の脅迫によって中止に追い込まれるケースがこの数年跡を絶ちません。日本の右翼団体は、真正の政治団体は一部で、多くは思想性など何もなく法の網をくぐるために政治結社を名乗っているだけの暴力団だと言われています。ところが、国はそういう団体を監視する代わりに、ビラを配布するだけの丸腰の市民の方を監視・拘束する法作りに腐心してきました。市民が自由に安全に意見や政治的立場を表明できる社会を保証することこそ、改憲よりもテロ対策よりも優先する民主主義国家の命綱であり、それをないがしろにする者に国政を預かる資格はありません。野党は、今こそ団結して国会で安倍首相を糾してほしいものです。

 また、本島前市長が語ったように、市民も暴力に対し超然として対決する心構えがなければ、自治体の決議や意見書も血の通ったものとはなりません。暴力団、企業、官僚、政治家、そしてマスコミも結託した談合体質を掘り崩せるかどうかは、最終的に、市民一人ひとりが職場での暴力や不正義の押し付けに黙って屈するのを潔しとするかどうかにかかっています。

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2007/04/01

生命と引き換えの市民権と、日本の戦争遂行における農村の犠牲について

 今日夕方のNHKの報道番組を見ていたら、米兵のリクルートを取り上げていました。
 米軍は、イラクにおける長期にわたる先の見えない戦闘で、兵力が常に不足気味です。しかし、米国は73年に徴兵制を廃止しているので、なんとかして志願兵を募らなくてはなりません。

 本来海外での任務のない州兵も駆り出され、悲惨な帰国となった人も少なくありませんが、兵士の供給源としていちばん注目されているのは、白人の低所得者層、黒人やヒスパニッシュ等のマイノリティ、そして今日の報道の主役だった米国市民権を持たない外国人です。米国はすでに格差が固定した資本主義社会ですが、逆に言えば、中所得者以上は戦争に対する関心が低い。自分達や子どもが戦場に行く可能性がほとんどないからです。「華氏911」は、まさにこの構造を告発するための映画と言ってもいいと思いますが、ムーア監督が描き出した矛盾は一層深刻化しているようです。

 米国市民権をもたない外国人に志願を持ちかけ、戦場に行って米国のためにたたかえば、それだけで本人にも家族にも市民権を与えると誘います。しかし、生きて元気に帰ってくるとは限りません。息子をイラク戦争で失った父親は、死んでから市民権をもらったとして何の意味があるのか、とこの制度に反対するプラカードを下げて街頭に立ちます。大学へ進む学資の援助も最近は増額され、「一般企業ではこんな待遇はありえない」と高校生を煽っています。当たり前です。生命を差し出すわけですから。でも不安で踏み切れない青年には、必ずしも戦場に行くとは限らない、と説得していましたが、そんな上手い話があるはずがありません。鉄砲玉にもならない若者の学費援助ができるくらいなら、その地域の普通の就職の面倒を見ればよいのです。

 様々な特典をちらつかせて特定の階層の人々を志願へ追い込むやり方を批判されても、軍のリクルートの担当者は意に介しません。これは名誉ある仕事なんだ、と。しかし、志願兵におけるマイノリティの割合は米市民全体の割合より常に多く、更に戦死者での割合ならもっと多くなります。

 こうした現実を、米政策の行き詰まりと言う見方だけではなく、戦場に行くしか選択のない人々の悲しみ、悔しさにもっと共感する視点で報道できないものでしょうか。

 報道を聞いていて、中世自治都市間で行われた傭兵同士の優雅な戦いをのぞけば、いつの時代もこれが戦争と言うものだ、と思ったのです。

 先週私は、石川宮沢賢治を読む会で「賢治の見た兵隊」という題で話をさせていただきました。賢治が戦争をテーマに描いた童話や戯曲として、「烏の北斗七星」「飢餓陣営」「北守将軍と三人兄弟の医者」がありますが、いずれも主人公は兵士です。しかも、「飢餓陣営」「北守将軍と三人兄弟の医者」には戦闘場面もなければ、何の目的で戦争をしているかも分かりません。極端に言うと勝敗さえ重要ではないような設定です。

 賢治の最晩年の作品「北守将軍と三人兄弟の医者」の完成稿が「児童文学」に発表されたのは、柳条湖事件が起こった1931年でした。翌年新聞社は「満州事変」を支持する共同宣言を発表、五一五事件で犬養首相が殺害され、日本の戦時体制は後戻りできない段階に突入します。一方、東北、北海道地方は冷害によって大凶作となり、各地で欠食児童、娘身売り、家族離散が続出しました。政府は救済事業に乗り出しますが、すでに国家予算の4割に達していた軍事費に圧迫され、わずか3年で頓挫します。私は、こういう時期に、戦場から帰還した将軍が人間に戻る話を賢治が書いた意図は何か調べていました。そして、やはり賢治の視点が農村、農民に注がれていたことに気付いたのです。

 日本陸軍の兵士はほとんど農村出身者で占められ、日本の「近代化」と戦争は農村の犠牲なしには進められなかったのは明らかですが、これほどの犠牲を払っても、軍需で儲けた財閥は国内消費に期待せず、輸出に精力を注ぎ、近代化の恩恵は国内には還元されませんでした。

 農民は、従来の封建体制の下での領主の年貢に匹敵する高率の小作料という形で収奪を受け、自家用酒造法や葉煙草専売法の実施以降は、わずかな嗜好品の自給自足も禁じられました。さらに、日露戦争では農村から兵士百万人が派兵され、5万人が亡くなっています。馬も二十万頭が徴用されました。戦争で働き手をとられた農村では、堆肥が十分につくれない上、満州からの大豆粕の輸入も止まってしまいます。こういう時に気候不順が追い打ちをかけた結果が、日露戦争後の大凶作でした。政府はそれでも、膨張政策をばら色に脚色し、自由な言論活動を弾圧することで不満の目くらましをはかりました。村税も集まらず、信用組合も半潰れで、小作料が5年も滞る状況になれば、農民はもはや「満蒙に渡れば十町歩の自作農になれる」という宣伝にしがみつくしかありませんでした。戦争は、威勢の良い進軍ラッパではなく、疲弊した農民から選択肢を奪い取っていく方法で、徐々に進められていったのです。

 やがて、次男坊以下の徴兵は、貧しい農家でも食い扶持が減るだけでなく、場合によっては仕送りも可能であり、一般社会に比べ出身による差別が少ない、ということで歓迎する家も現れます。中でも、日清戦争以後戦功をあげた軍人にのみ制度化された金鵄勲章の年金百円は、小作農の年収の2倍半に相当し、借金で首の回らない小作農には大きな魅力でした。それがかえって、戦争の目的や悲惨さを覆い隠すことにもなっていきました。

 当時の日本で戦争を考えることは、農村を考えること、農民を考えることと切り離すことはできません。「大義」のためではなく、生活困窮のために戦争に借り出されていく兵士を農村に取り戻し、人間性を回復させることを、賢治が死を意識した人生の最終盤の夢として選んだのは、自然なことのように思えます。

 戦争は、こうやって、正義の美辞麗句のかげで、人間の生命に軽重をつけながら進められていくのです。

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