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2007/03/11

平和を求める道筋を、父の死を機に考える

 早いもので、今週の水曜日に、父の満中陰を迎えます。

 父は、一昨年から心臓の病気で入退院を繰り返し、1月には何度か危篤の危機を迎えながら、驚くほどの生命力で回復しましたが、1月25日夕方、すべて納得したように静かに息を引き取りました。最後の一週間は、口から水一滴とれない状態だったのに、死に顔は信じられないくらい安らかでした。

 父と過ごした最後の2週間は、私が父を理解するために、仏様が与えてくれた時間のように思います。

 思えば、私のこれまでの人生の半分くらいは、父と母に対するたたかいのようなものでした。私は、問題の原因を、母の言うまま、若い頃暴力的だった父に求めてきましたが、最後の2週間の父の穏やかな表情や言動に接し、いかに色眼鏡をかけさせられたまま父を見ていたかに、はじめて気付きました。今父には何の憎しみもありません。ただ、仏になった父が悲しまないように暮らすことしか考えれらなくなりました。

 父がリハビリ施設で使うつもりで新しく購入した靴は結局一度も使われず、新品のまま遺されました。動脈硬化を治療するため昨年足の付け根の大動脈にステントを入れる手術をしてから、二級障がい者の母よりも体力が弱っていた父が、ゆっくり時間をかけて近所を散歩できるようになりたいと言って買ったものでした。トレーニングを始める前の現況調査で、自分が他人の役に立っていない様でさびしく思うことがあるとふと答えていた父の気持ちに、今さらながら思いを寄せています。

 貧乏で小さい頃から働いて家計を支え、太平洋戦争真っ只中で青春を過ごし7年間も外地で戦い、日本に戻ってからもほとんど故郷に帰れなかった父は、語れない苦しみをたくさん抱いていたに違いありません。父はそれを墓まで持っていってしまいました。私が引き継ぐべき事はたくさんあったはずなのに…。

 父の死を機に、自分のこれまでの活動を振り返ってみると、客観的な大義名分だけでない、個人的な動機が良くも悪くも根を下ろしていることに改めて気付きました。

 物心ついたときから経済的に困窮した経験はありませんが、両親の罵りあいの下で育ったために、他人に自然に接することにいまだに不安を感じると同時に、もっと違う人間関係があるはずだという渇望をずっと持っていました。敬愛する宮沢賢治は、自分の活動の動機を「ただ美しいものがほしくてたまらず」と語ったことがあります。不遜な言い方を許していただければ、私は賢治のその気持ちがよく分かります。屈折しているかもしれませんが、私は平和を目指す時に、知識から得られた感情だけでない、どろどろした根っこがあるのを今となってはあり難く感じています。

 何をするにも、どんな恵まれた環境の人でも、人間が何の矛盾も抱えていないということはありません。そして、多くの場合、矛盾のどちらか一方を無意識に抽象化することで棚上げし、解決した積もりになろうとします。しかし、自分の頭の中でいくら抽象化しても、具体的な問題は当然そのまま残っているわけです。具体的な問題を具体的なままぶつけ合わなければ、新しい視界が開けることはありません。

 平和運動と言っても、ひとりひとり動機も目標も道筋も違うはずです。運動全体としての共通した目標のほかに、個人個人の正直な動機に目を背けてはならないと思います。それを地ならししてしまうのでなく、ひとりひとりの違いを保証できる運動でなければ、普遍性は生まれてこないでしょう。

 戦争責任を追及し、自分の子どもと平和の問題を話し合いながら、父の経験した苦悩や罪を共有しようとしなかった中途半端な自分を、安易に許してはいけない、と私は今思うのです。

 911以後の平和運動の中で、この国の市民は、スーザン・ソンタグが言う「他者の苦痛へのまなざし」をどれだけ意識していたでしょうか。市民は真の意味でどれだけ賢くなれたでしょうか。ヨーロッパに「自分が賢いと思っている人が一番狂っている」という古い諺があります。ひょっとして、平和運動の一部はすでに「自分が一番賢い人」と思ってはいないでしょうか。

 多くの情緒障がい児に接してきたトリイ・ヘイデンは、「この世界は基本的に悲劇である」と語りました。わたし達はその悲劇の海を渡っていかなければなりません。運動は、舟を新しい世界に到達させることを目標にしなければなりません。どんな不合理な時化の日も、逃げずに現実を受け止められない舟は、早晩波に飲まれてしまうでしょう。しかし、運動に参加する生身の人間一人ひとりは、何をなしえたかではなく、何に向かって歩いているか、で輝く存在であることを信じています。

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