郷土愛と「愛国心」の遠さ ~ 反「愛国」的な安倍首相
教育基本法「改正」案では国を愛する心と、郷土を愛する心を同列に並べていますが、わたしは違うと思います。
郷土という言葉の対象は、自分が生まれ生活してきた気候風土や、具体的な人間関係など、当事者が特別な説明を受けなくても実感できるものです。その文化がその時点ですべて満足できるものでなくても、それらの多くは長い歴史の中で自然発生的に生まれ、そこに住む人の間で合意されてきたものですから、ひとりひとりのアイデンテティの一部になっています。そこを完全に捨てさらない限り、人々は郷土と折り合いをつけ、自分もその一部として郷土の改善に取り組むしかありません。私の住む北陸の雪は本当に厄介なものですが、しばらく他所で暮らして帰ってくると、面倒だと思いながらも懐かしさを感じる、そんな思いが郷土愛なのかもしれません。
一方、国というものの実態は、だいぶ違います。国の政治が直接生活に影響を及ぼすとはいえ、わたし達は国を日常で実感することはありません。国に対して訴訟などの異議申し立てを起こすときは、当然国を意識しますが、それでも国全体を実感できるか、というと、そうではないと思います。国という大きな集団を破綻なく運営するには、技術上、様々な専門知識や権限の委託が必要であり、一人の人間が実感できる範囲を超えているからです。
そもそも、国は、郷土の人間関係のように自然発生的な集団でもなければ、最初に定義があってそれを目指して作られているわけでもありません。時代によって国の役割も違いますし、そこで生活する普通の人と国との関係も違います。そのうえで、国を構成するできるだけ多くの人の利益を追求するためには、面倒でも、合意に向けた慎重で公平な議論が不可欠です。国を治める組織はそれを忠実に実現しなければなりません。ですから、国を正しく導くのは、本来的に理性と根気であって、感情ではありません。
「国を愛する心」を子ども達の目標にすることは、全員の利益を実現するための模索と合意の努力を否定して、「一部の人間が愛する国」を議論なしに押し付ける言い訳にすぎません。
よしんば、「国を愛する心」というのが美徳であったとしても、それは、国の行うことを無条件で支持することではないはずです。どの国の歴史も国民の間の様々な葛藤と対立のないものはありません。その歴史の中から何を選択して愛するのかが問題です。最近で言えば、何の根拠もなく始まったイラク侵略を支持したことも「愛する」べきなのか。日の丸や君が代という抽象的で合意のないものを「愛する」根拠はどこにあるのか。一方、その進歩性がGHQを驚かしたといわれる日本人の憲法研究会の憲法草案や、フィンランドが手本にして学力世界一を達成したこれまでの教育基本法や、1999年世界のNGOが集まって21世紀の目標とした憲法9条などの誇るべき宝をなぜ「愛する」ことができないのか。「国を愛する心」といっても、具体的に「愛する」項目は、とても恣意的で不公平なことが分かります。
ひとりひとりの内心に踏み込んで何を「愛する」か決める権限は、誰にもありません。米国の哲学者サマヴィルの言葉は、愛国を叫ぶ安倍首相こそが、もっとも反「愛国」的であることを教えてくれます。
「自国に対する真の愛情は、国民から見て現在の政府が誤った道を歩んでいると見なされる時、また、その政府自体と国全体にまた自国を含む世界に対して大きな実害をおよぼすおそれのあると考えられるときには、国民がそれを正しい道に戻させ、その政策を変える努力をすることを求めるものである。(サマヴィル)」
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