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2006/11/30

とんとんとんからりと隣組 同じ考えの人だけの集団目指す「再生会議」

 また「社会奉仕活動」か。これからボランティアやってる人を見たら、交通違反した人か、ともかく悪いことして捕まった人じゃないかと勘ぐってしまうな。せっかく学校や会社を離れて自発的にやってることにまで口を出し、点数をつけるなんて、考えただけでゲロゲロだ。

 いじめをしている子どもは影響力が大きくて一緒に議論できないから、別の部屋に隔離して先生とサシで話をするんだと。先生に正直な気持ち言えるならいじめなんてやらないや。いじめられている子どもと、いじめている子どもが顔を合わせず別々に結論を出すわけだな。自分がいじめる側に分類されなくてよかった、そう思ってびくびくしている子どもがたくさんいるだろう。下手な発言はできない、ってね。だいいち、影響力があるなんてどうして決め付けられるの?その逆から始まってる場合もあるんじゃない?社会に出れば、「影響力」があるのは結局エリートなんだってことくらい、知ってるさ。

 緊急のときっていうのはあるから、きれいごとを言ってられない場合もある。でも、そういうときのやり方は、当事者しかわからない。お上からマニュアルで指示されてもしょうがないんだって、なんで気付かないのかなあ。

 大事なのは、いじめてる子どもも、いじめられてる子どもも、傍観している子どもも、一緒に話すことだよ。今の子どもにコミュニケーション力が不足しているのは本当だと思う。どんなに四六時中メールをやり取りしても、顔を見合わせて話すのにはかなわない。膝を突き合わせて話すのが怖くて、メールやバーチャルな世界に逃げているのかもしれない。子どもがドロだらけになって遊ぶ広場も、ケンカの仕方を教えてくれるガキ大将もなくなってしまったんだから、それは子どもの責任じゃないんだ。

 それを取り戻すチャンスじゃないか。クラス皆んなで正直な気持ちを話し合うって言うのは。いじめっ子を隔離したんじゃ、いじめっ子はいつまで経ってもいじめっ子のまま、いじめられっ子はいじめられっ子のままだよ。

 いじめを放置した先生を処罰するというのもおそろしい。人間関係は、ひとつも同じものはないんだよ。努力がなかなか実を結ばないときもあれば、小さなひとことがこころの壁を崩してしまうときもある。そのテンポはひとそれぞれだと思う。直接子どもに接している先生よりその子のことを分かっているはずのないお偉方が、その途中を見て、あ、こりゃ怠慢だな、とか、不十分だな、とか決めるんだろうか。そこでその先生が飛ばされちゃったらその子も救いがないよね。

 知ってる?子どもの自殺は悲惨だけど、先生はもうその10倍も自殺してるってこと。ほとんどのまじめな先生はもう限界なんだよ。これ以上先生を見張ってプレッシャー掛けたら、ますます先生の自殺が増えるか、お偉方がこわくて、ほんとのことを言わないか、どちらかだよ。そんなんじゃ、いじめは絶対なくならない。

 先生を絶対だなんて思わないし、子どもはそんな先生がほしいんじゃない。子どもの声をちゃんと受け止めてくれる普通の大人がほしいんだ。結論は自分で決めるよ。そのかわり、結論を出すまで最後まできいてくれる先生がほしいんだ。

 そして、社会で威張っている人が、子どもが目標にできる生き方をしてくれなきゃ。うそ臭い言葉を子どもが信じていると思ったら甘いよ。そう、「再生会議」とかいうSFアニメにでも出てきそうな名前のあんたたちも。傍観しているのもダメっていうのなら、あんた達が手本を見せてよ。自分の損得でなく、人間が行動を起こすことがあるってところを。

 都合の悪い奴を目に付かなくするのが、問題解決だって思ってるでしょ。皆んな、そうやってこんなにしてしまったんだね。この日本を。

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2006/11/29

人間は、不完全な存在である 基本法「改正」が見落としている世界観

 人間は、不完全な存在である。

 これは、神を信じるか信じないかには関係ない。この前提を承認できない人とは、世界観が共有できない。しかし、自分は全能だと錯覚している人や、全能を気取る人についていけばなんとかなると誤解している人が増えているようだ。

 人間は、不完全な存在である。

 したがって、大人といえども、一方的に子どもを導いていけると考えるのは間違いだ。これは、年上の人を敬うかどうかとは関係ない。年上の人を敬うのは美徳だが、年下の人に自分への忠誠を強制するのは美徳ではない。もし教育が、年長者の思想や知識を年少者に一方的に植え付けるだけなら、人間は過去の固定した時点から一歩も進歩することができなかったはずだ。

 人間は、不完全な存在である。

 不完全な人間同士が争わず共存するには、自分を大切にすると同時に、お互いの価値観をぶつけ合うばかりでなく相対化してとらえられなければならない。多様な価値観それぞれを受容するにせよ、拒絶するにせよ、一度相手の考えを受け止める力があれば、世界は、その人にとって汲めども尽きぬ学びの場を提供してくれる。その過程で自分の古い殻を自分で破っていくほど楽しいことはない。教育の目的は、極論すれば、その喜びを経験させることにある、と私は思う。

 人間は、不完全な存在である。

 当然私も含め、多くの人は被害者であると同時に加害者である。その事実から自由な聖人やスーパーマンはいない。違いは、それを自覚するかしないかだけなのだ。いじめの加害者もいつ被害者になるか分からないし、被害者もいつ加害者になるか分からない。一流企業の社員がいつ職も家も失って放浪するかも分からない現代日本である。教育基本法「改正」を期待する人は、他人を傷つける行為や、いじめに耐えられないこころを生来の宿命と決めつけようとしていないか。自分は聖人かスーパーマンだと思っていないか。

 人間は、不完全な存在である。

 住む場所や時代が違えば価値観は変わって当然だ。若者と「大人」との間には大きな価値観の壁がある。では、壁をつくったのは誰なのだろう。国家の価値観を無批判に受容することを子ども達に求め、資本主義の宿命である商品市場開拓のために次々に新しい価値観への乗り換えを迫ってきた大人ではないのか。とはいえ、新しい価値観は悪いことばかりではない。「古き良き時代」には、差別される人々に目をつぶった総身内意識という異なる城壁があった。古い壁を打ち破ったとき、別の場所に壁が立ち現れることを恐れてはならない。

 人間は、例外なく不完全な存在である。

 それを嫌と言うほど身にしみた人類が、手にした方法が民主主義である。民主主義は、どんなに価値観の違う者でも、できればつきあいたくないと思う者でも、社会からそれを排除することを禁じている。いじめを犯したら学校からドロップ・アウトさせるというのは、管理者にとっては楽だ。自分が護られている壁から異物を放り出すわけだから。しかし、ドロップ・アウトした子ども達は、それからどこへ行くのだろう。人間や子どもは学校の中だけで生きているのではない。この世界からは、どんなに気に入らなくても、どこへも逃げ出すことはできない。しっぺ返しを食らう前に、価値観の違いを認めることだ。それが結局は社会的コストを削減する。

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2006/11/27

四原則という無原則

 政治家が使う表現が最近は幼稚になりました。

 「(核兵器を)『作らず』、『持たず』、『持ち込ませず』に『言わせず』を加えて、『非核四原則』と言うそうだ」「私は非核三原則は認めるが、四原則は認めない」(中川昭一自民党政調会長)

 反論する気も失せるご高説です。しかし、こんな発言が何回も繰り返されることによってムード的な核武装推進論が定着するのはたまりませんので、いくつか指摘しておきましょう。

 核武装だろうが、先制攻撃だろうが、純粋な意味で議論するのはおおいに結構だと思います。理性的に考えれば、どちらも現代国際社会では認められず、日本に不利益をもたらすことが再確認されることは意味があります。

 問題は、中川氏らの求める「議論」が、核武装が是か非かというプレーンな議論ではなく、これまで排除してきた核武装という選択肢を積極的に取り入れるという方向性を決めた「議論」であることです。

 それに、中川氏はよく歴史を調べて欲しいのですが、日本の核武装が政治の舞台で議論されようとしているのは初めてではありません。防衛庁は、1970年と1994年の2回、秘密裏検討を行い、その後少なくとも5回、問題が政治に持ち出されています。『非核四原則』というのは氏の頭の中だけの妄想に過ぎません。

 しかも、『非核三原則』さえ、既に破られていることは公然の秘密です。米国の核艦船が何度も日本に寄港し、在日米軍航空基地で核兵器の標識がついた貨物が目撃されているのも一度や二度ではありません。疑惑が指摘されるたび、政府は、米国からの事前通告がないことを理由に、あるいは戦略上核搭載の有無は明らかにできないという理由で調査を拒否してきました。こういう姿勢こそ、議論の封殺というのです。

 あまつさえ、日本政府は、地元の反対を押さえつけて横須賀を米国本国以外で初めての核空母母港にしようとしています。先日横須賀湾で米艦船が出航した後に検出された放射能も、近くの工場から出たもの(それならそれで恐ろしい)と、信じられない報告で幕を引こうとしているのはご承知の通りです。

 中川氏が執拗に核武装論議を提唱するおかげで、北朝鮮の核実験に抗議する説得力が著しく傷つけられた点も無視できません。中川氏は、北の核があるからこそ問題提起したと言いますが、米国の核に対し、現状の北の核が軍事バランスを崩すほどの影響力を持つと真剣に心配している国はおそらくないでしょう。どんな状況になろうと日本は核を持たない、だからお前も核は持つな、と言ったほうが、北朝鮮の逃げ道はなくなります。中川氏は、本心は金正日総書記に助け舟を出したいのではないでしょうね。

 日本はすでに20トンを超えるプルトニウムを保有し、民生の核サイクル技術も確立しています。日本の経済力と技術力を投入すれば、2年程度で「『粗雑ではあるが完成した』核兵器能力(弾頭、ミサイル、誘導装置)を持つことができる」と、シドニー大学国際戦略研究センターのアラン・デュポン氏は予測しています。中川氏の核武装発言は、長期的には北の核以上の現実的脅威としてとらえられかねません。

 自民党の加藤紘一衆院議員は、「Forbes」2007年1月号のインタビュー記事「アジア外交では道徳的立場を保て」で、北東アジア非核地帯を提唱しています。電力の1/3を原発に頼っている今、エネルギー確保の面からも、ウラン輸入ができなくなるような核武装の選択肢はあり得ない、と述べています。なるほど。冷静な見方です。同時に加藤氏は、「私は10年、15年の長さで考えたとき、朝鮮の南北統一があり得ると思っています。それも見据えながら日米安保に加え、北東アジアに非核地帯をつくる安全保障も考えないといけません」として、日本が発展するには、隣人との平和的共存でリーダーシップをとるしかない、と主張。保守政治家といえども、中川氏の様なデタラメばかりではありません。

 日本が核武装について、道義的な面、平和に与える影響だけでなく、政治的、経済的、そして安全保障の面でどういう損得があるのか、きちんと検証すれば、マイナス面が多いはずです。

 例えば、米国は膨大なMD開発の経済的負担を日本に負わせようとしています(それでも米国の中核都市が核攻撃されたら防げないと白状しています)が、日本が核武装しようとした時も、米国の負担が軽くなると歓迎するのか、それとも米国の支配への挑戦として叩き潰そうとするのか、ひとつひとつ検証していけばいいのです。

 中川氏が内閣閣僚なら、政府の公式見解である『非核三原則』に疑問を呈するような発言をすることは閣僚資格に関わる問題です。一連の氏の言動は、一政党の役職でありながら大きな影響力を持つ自民党政調会長の立場を上手く利用したもので、思いつきではなく、安倍首相も含めた自民党幹部が、それぞれの役割分担を決めた上での計算づくのように感じます。

 だからこそ、徹底して理論的に反論しなければならないのです。

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2006/11/26

学校を試行錯誤の許される場に 「再生会議」の提言は解決にならない

 安倍首相直属の諮問機関「教育再生会議」(野依良治座長)は、25日まとめたいじめ問題に対する緊急提言で、いじめた児童・生徒に出席停止など厳しい対応を取ることを盛り込みました。

 相手がいじめに耐えられなくなって自殺した後も別の相手に恐喝や暴行を繰り返す例も聞いています。恐喝や暴力は「いじめ」ではなく犯罪的行為ですから、法律に基づいた厳格な対応が求められます。しかし、警察の統計でも少年の凶悪犯罪は50年前の5分の1であり、昔と比べて子どもが凶暴になっているわけではありません。特異な例をすべての子どもに当てはめて、少年法の「改正」をしたり、「非行」の定義を拡大することは別の意図があると考えるべきです。

 そして、私が幾度も指摘しているように、いじめで加害者が固定しているのはむしろ稀なケースなのです。絵本「ぞうれっしゃがやってきた」で平和と生命の尊さを訴えた作者の小出隆司さんは、最近中日新聞のインタビューに答えて、この本が教員時代の小出氏と児童との共同作業の賜物であることを紹介しながら、今のいじめ問題について、「子どもたちのコミュニティーが壊れてしまった。かつては子ども同士の道義があり、自分たちで解決できる力があったのに。高度成長が子どもを変えたんです」と環境の変化が子ども同士の関係を変えてしまったことを指摘しています。

 成長途上の子どもに、教育を受けた大人と同じ人権意識を要求するのは無理な話で、子どもの純真さがあれば仲良くやっていけるというのは楽観的過ぎます。とくに、思春期は些細なことで気持ちが揺らぎやすく、自分を護るために本意でない行動に出る経験は、誰しも振り返ってみればあるのではないでしょうか。少しずつ傷つき傷つけられあいながら、また、一歩進んだり後ずさりしたりしながら、人権というものを身体で覚えて成長していくのです。学校はそういう試行錯誤が許される場でなくてなりません。

 過度の競争主義と大人の介入は、学校という社会から人間的成長の機会を奪ってしまったのではないでしょうか。大人の期待する枠からはみ出ないよう、目立たないいい子にしているか、それができなければ開き直ってドロップアウトするしかない。子どもの不安がますますいじめを深刻で目に見えにくいものにしているように思います。

 「教育再生会議」は、いじめた児童・生徒、と簡単に括っていますが、それをどうやって判断するのでしょう。主導的に行っている子どももいれば、連鎖的被害者になるのを恐れて従っている子どももいます。

 ここにも、安倍首相やその支持者に見られる単純な善悪2分の世界観が反映されています。世界にはテロを行う国と、それとたたかう国の2種類しかないし、人間も生まれつき加害者になる人と被害者になる人がいる。その中間に切れ目なく国や人間が分布していることや、何を大切にするかの物差しは無限にあることを認めようとはしません。実際、多くの人は、ある場所では被害者であると同時に、別の場所では加害者なのです。安倍首相らは、自分は善であり加害者ではないと思っています。というより自分自身を基準にした「善」を押し付けようとしています。

 伊吹文部科学相は、24日、教育基本法「改正」の理由のひとつとして、「国会で決めた法律は、国民の意思で全体の意思だ。これと違うことを特定のイズムや特定の思想的背景を持ってやることを禁止」するのが、新たに設けられる「教育は、法律の定めるところにより行う」という規定の意味だと答えました。教育基本法「改正」が国民の意思でないことは、これまでの経過を見れば明白です。それを政府の主導で強行することは、法律をたてに、安倍首相や伊吹文科相の「特定のイズムや特定の思想的背景」を押し付けることに他なりません。(教育行政の責任者が、今どき、「全体の意思」などという言葉を平気で用いる不見識にもあきれますが…)伊吹文科相の意図がほんとうなら、そういうことは既に現行の基本法にかいてあるし、日の丸・君が代という「特定の思想」の強制を今すぐやめなければなりません。

 先日学校を通して伊吹文科相の「文部大臣からのお願い」とする本文300字足らずの文章を受け取りました。ご覧になった方も多いと思います。その冒頭はこんなのです。

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 このところ「いじめ」による自殺が続き、まことに痛ましい限りです。いじめられている子どもにもプライドがあり、いじめの事実をなかなか保護者等に訴えられないとも言われます。
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 「いじめられている子どもにもプライドがあり」というニュアンスに私はひっかかりました。文章というのは正直なもので、いくら取り繕っても、個人の思想は文体の何気ない表現にあらわれます。「いじめられている子どもにもプライドがあり」という一言に、文字面の論理的意味とは反対に、弱者に対する侮蔑の気持ちを感じ取らないわけにはいかないのです。それに、いじめの被害者が親に言えないのは狭義の「プライド」の為ではありません。語れば結果として楽になるとはいえ、それを思い出すこと自体が苦痛だからです。教育行政の長は、児童心理のイロハさえ勉強されていないようです。第一、最近の事件は、たとえ訴えても大人が黙殺したことから最悪の事態にいたったものがほとんどではなかったでしょうか。問題のすりかえはやめてほしいものです。

 強者の集団「教育再生会議」が提言したようにいじめた子どもを単純に排除することは、イラクの混乱を「武装勢力」の排除で解決しようとするのと同じく、問題の根っこを残したまま、新たな対立を持ち込むことになりかねません。子どもはますます目立たないよう、目立たないよう暮らすことに汲々とし、いじめは陰湿化するでしょう。問題に対する対症療法が不要だとは言いませんが、それを誰が提案するかが問題です。現場でなく権力者が提案する対症療法は、たいていの場合、無責任の言い訳に過ぎません。

 今必要なのは、子どもが自由に気持ちや考えを出し合う場をつくることであり、「子どもたちのコミュニティー」を復活させることです。不審者がいるから外に出るなというのではなく、駐車場より子どもだけで安心して遊べる広場をもっともっと増やすことです。学校にこれ以上選別の基準を増やさないことです。子どもの成長を学校任せにするのでなく、親や地域の大人みんなが子どもに対し自分の時間を割き、子どもの失敗を受け止める度量を持つことです。

 思春期の子どもの心のケアを専門にする名越康文さんは、最近新聞社が連載した記事への寄稿で、いじめの問題で不特定多数に呼びかけることに関して「君たちを十把ひとからげにして『生きろ』と呼び掛けることが、そんな、人それぞれ独特の、その人しか語り得ない経験を無視してしまうんじゃないか」と、葛藤を告白し、「何かをすべきだとか、どうあるべきかとかじゃなく、個人の語りしか、今は子どもたちに届く力を持たないと思う」と語っています。子ども達は、国家のための任意の材料としてでなく、取替えようのない不完全な自分と1対1で向き合ってくれる大人を探しているのではないでしょうか。

 現場に飛び込みもせず、上からの通り一遍の命令だけで問題を解決できるという態度に、教育基本法「改正」推進派の無知と傲慢が端的にあらわれています。

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2006/11/19

納期必達 あるいは長いものに巻かれる国の未来

 与党が、衆議院特別委員会で教育基本法「改正」案の採決に踏み切った。拙速採決は、じゅうぶん審議したとする与党の主張以外、特に理由もない。一部メディアは、これ以上の審議は、いじめ等の問題の先送りになるといって採決を支持した。でも、現在のいじめ問題の解決方法が法案の何処に書かれているか知っている国民はほとんどいないだろう。当然だ。法案に書かれてもいないし、政府が説明したわけでもない。

 第一、このような重要な法案について、わずか100時間程度で審議がじゅうぶんという感覚に恐れ入る。こうした感覚が教育現場で子どもの声をゆっくり聴く機会を奪っているのだろう。

 さらに、世論収集の場であるタウンミーティングのほとんどが、金まで払って動員したヤラセなのだ。本当に「美しい国」を目指す政治家なら、そこでもう一度仕切りなおしましょう、というのが筋ではないか。必修単位未履修にしたって、4年前から事実を知っているくせに放置したのは行政の責任である。それも特例措置で誤魔化して、自分達は全く襟を正さない。


 法案「通過」の日程は公聴会開催前から決めていたというが、納期必達はビジネスでは重要であっても、政治では必ずしもそうではない。効率より過程を優先するのが民主主義である。民主主義を標榜する社会で唯一権限が与えられるのは、全構成員(反対者も含めて)が納得して決めたという事実だけなのだ。

 安倍首相の言う「愛国心」や「道徳心」をたたきこまれた戦前の人々が、他国民に対してだけでなく、自国民に対してもどういうことをしてきたか。沖縄戦では、自国民を守るはずの軍隊が結局自国民を殺す立場にまわった。沖縄だけではない。自分が生き延びるため、あるいは政府の宣伝を信じるままに、足手まといになる怪我人、障がい者、子ども、年寄りを見殺しにし、意見の異なる人の弾圧に手を貸した。

 私は、今の基準から、そうした個人一人ひとりを責めるのは不遜だと思う。しかし、国家によって「愛国心」や「道徳心」を植え付けられた人が、戦争中いかに人間らしい心を奪われ、冷酷になるか、そして規律を失うか、戦争体験者が繰り返し語ってきたことではないか。

 それを忘れて、軍備拡大や経済制裁で隣人を脅迫し、規制緩和万能論で安全を企業に売り渡し、わざわざ非常事態の可能性をよびこむこと自体おろかだ

 非常事態になると人間は、自分は被害者だから、他の人もそうしているから、こういう状況ではしかたがない、いろんな弁解の言葉を用意して、小さな悪のベクトルを束ねていく。

 強制されたモラルは、いったんタガが外れると弱い。いざという時のモラルや規律を保証するのは、自立した市民の人権意識のみである。

 今のように、政府とは名ばかりの特権階級が、その役割の怠慢を棚に上げ、社会における格差拡大を自己責任(自己責任というからには、少なくともスタート地点とその後の環境が同じでなければならない。現実にはそうではない)のせいにして弱者を恫喝する時代では、一度パニックが起きれば、長いものに巻かれるしか判断基準のない人々がどういう行動に出るか。国民保護計画に書かれた机上の案など、絵に描いた餅になってしまうだろう。

 阪神淡路大震災でも、日本海重油流出事故でも、新潟中部地震でも、危機を救ったのは、「ボランティア」を強制された人や軍隊ではなく、安倍首相の嫌いな戦後民主主義を実践した人たちだった。教育基本法の「改正」は、その礎さえ台無しにしようとしている。

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こどもがたたかう相手としての大人 「伝説の広場の歌」をかみしめながら

 ご飯が上手く炊けると、釜のふたを開けた時お米が立っている。林さんの生の音楽に久しぶりに触れて、林さんのソングに接するうれしさって、そんなご飯を見たときの気持ちと似ているな、とふと思った。

 音楽を通して子ども達の創造力を見つけ出す活動を行っている「どれみふぁたんけんたい」が、12月10日の発表会で林光さんの曲を歌うことがきっかけで、先日林さんを福井に呼び交流会を開いた。林さんと聞いてはじっとしておれず、直接関係ない私も特別に参加させてもらい、楽しい時間をすごさせていただいた。

 75歳になっても、ずいぶん前にお会いした時と変わらず自然体で、子ども達の矢継ぎ早の質問やゲームにも飄々と対応されているのはさすが。

 子ども達がそれぞれ手製の楽器で披露した「雨の音楽」は、多様なパーカッションの背景に感じられる地鳴りの様なリズムが素敵だ。雨を待ち望んでいた草や虫達のわくわく感にどきどきさせられる。

 子ども達が歌う「こどものたたかい」という作品の楽譜も買った。楽譜が活字でなく、林さんの手書きなのが嬉しい。ソングの楽譜は手書きに限る。大学生で合唱を始めた私は、「軍隊を捨てた国」の挿入歌にもなった林さんの最も有名なソング「告別」を歌い、まだ背景も知らないうちから涙が出てきた。歌を歌って涙が出たのは初めてだった。楽譜を見ていると、その時の練習の雰囲気がよみがえってくる。

 「こどものたたかい」は、すべて林さんが作詞作曲した作品だ。短いが暖かい風刺が効いていて、子どもに寄り添いながら、なよなよ媚びたところがない。林さんは、楽譜集の冒頭にこう書いている。

『こどもとおとなとの関係ではこどもが弱者だからといって、こどもをおとなが保護してやるのがこどもの権利条約だというのは、どこかおかしい。こどもとおとなのたたかいのなかからひとつひとつの権利は手にすることができる。たたかい相手としてのおとながそこに見えるような歌をつくってみたつもりだ』

 これは目からウロコのメッセージだ。こどもの権利を、子ども自身が大人とたたかいながらかちとっていく。権利とは森羅万象の自然に対して発生するものではなく、必ず誰かを相手に奪い取っていくものなのだから、子どもの権利なら、大人にたたかいを挑むのは当然だ。しかし、「子どもの権利」となると、私も含めて、得てして大人が与えてやるような錯覚に陥りがちなのではないだろうか。

 今、政治の場で教育を語る大人の多くは、教育基本法の改正に反対した中学生を匿名で中傷したり、ヤラセに開き直ったりする卑怯ものばかりである。ならば、子どもはそんな大人に頭を下げて自分をまもってもらう必要はない。自らの正義をかかげてたたかいを挑めばよいのだ。

 林さんの美しくかつ骨太なソングに出会わなければ、私が今平和活動を続けていることもなかっただろうし、ブレヒトからハンドルネームを借りることもなかっただろう。

 最後に「伝説の広場の歌」を林さんの指揮で、参加者全員で合唱した。

 この歌は、林さんが宮沢賢治の「ポラーノの広場」に触発されてつくった作品だ。賢治が作りたかった「天上よりももっといい」ひろばの姿は、そこに最も具体的に描かれながら、語り部のキュースト氏の語り口には、それがまだ本当には実現せず、また自分には作れない寂しさが横溢していた。しかし、賢治をこよなく愛する林さんは、その広場をロマンチックな夢の国ではなく「いつかきっと行きつける約束の地」と歌った。林さんは現実を直視する人で、理想ばかりで作品を作る人ではない。それだけにこの明るい歌にこめられた願いは深い。

 もう7、8年前になるが、賢治の足跡をたどって、知人と秩父へ行ったことがある。その旅の宴会で、私は「伝説の広場の歌」を独唱した。この地で短いコンミューンを打ちたて、そして散っていった秩父困民党の人たちが、「いつかきっと行きつける約束の地」を信じていたであろうことを、自分に言い聞かせながら。

 日本は今、加速度的に危険な方向に向かっているように見える。しかし、パリや秩父で理想の自治を目指した人々との困難の差は比べようもない。

 林さんのソングは、彼らのたたかいが過去の冷たい史実ではなく、また単なる情熱だけで突っ走った無謀な試みでもなく、わたし達生きた人間につながる進行形の出来事であることを気付かせてくれる。

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2006/11/17

いじめは夢の近道ではない または、真の克服について

 伊吹文科相が、17日緊急アピールを発表した。全文はこんな具合だ。

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 弱いたちばの友だちや同級生をいじめるのは、はずかしいこと。 仲間といっしょに友だちをいじめるのは、ひきょうなこと。
 君たちもいじめられるたちばになることもあるんだよ。後になって、なぜあんなはずかしいことをしたのだろう、ばかだったなあと思うより、今やっているいじめをすぐやめよう。
 いじめられて苦しんでいる君は、けっして1人ぼっちじゃないんだよ。
 お父さん、お母さん、おじいちゃん、おばあちゃん、きょうだい、学校の先生、学校や近所の友達、だれにでもいいから、はずかしがらず、1人でくるしまず、いじめられていることを話すゆうきをもとう。話せば楽になるからね。きっとみんなが助けてくれる。

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 これを読んで、ああそうか、と思うひとがどれくらいいるのだろう?

 なんだか、知育教材の宣伝みたい。ひらがなを使って口語体にすれば子どもが聞いてくれるとでも思っている安易さが嫌だ。言葉のありきたりは措くとしても、こういうメッセージを発するなら、なぜ、教育基本法「改正」を充分な審議も経ず単独強行採決したのか。まったく信用できない。

 こんなアピールより、ヤンキースの松井秀喜選手がかつて語った次のメッセージのほうが、はるかに重みがあり、心に残ると思う。

「人は夢を持っていると思う。僕の夢は野球そのものだった。いじめることが夢なんて人は一人もいないはずだ。かなう夢、かなわない夢があると思うけど、いじめは夢の遠回りになっている」

 私は、少し前に「格差が広がる社会では、自分が志を果たすより、根拠無く誰かを見下して、安易な優越感にひたることで精神的安定を得ようとする」と書いたが、いじめは、自分が夢を持てないことの裏返しなのかも知れない。しかし、

「誰かを傷つけても幸せにはなれない」(「ともだちになるために」作詞:新沢としひこ 作曲:中川ひろたか)

のである。私は、この歌を、長年にわたって戦争や内戦で国土をあらされ、自国の文化も奪われてきたアフガンの子ども達が

■移動ミニサーカス MMCC
 http://www.japan-mmcc.com/

で上手な日本語と明るい声で歌うのを聞くと、涙が出そうになる。

 いじめは、学校に通う子ども達だけのものではない。今回は、いじめとたたかって真に克服した大人の話をしたい。

 優秀な技術屋は、分野が違っても共通した強みを持っている。ふとした話題に対する論理的な発想、仕事に対する責任感などだ。私が東京で勤めていた会社の大先輩だった彼もそういう一人だった。

 ところが、彼は特定の政党を公然と支持していただけで大きな差別を受けていた。

 彼は、はたらく者の視点から、仲間と独自の新聞を発行し続けていた。最初は工場で配っていたがそれが阻止されると、一軒一軒配ってまわった。私も東京在住中、その新聞作りに協力させてもらったことがある。組合が会社と協調路線に転じ多くの職場新聞の灯が消えた当時でも、彼の新聞は輝きを失っていなかった。政治的なプロパガンダではなく、職場の生の問題をとりあげ、日常のほほえましいコラムも温かさをそえていた。

 彼と仲間が若い頃受けた差別は凄まじかった。仕事を取り上げられ、工場の屋上につくった個室に閉じ込められた。会社の行事からも除外され、私生活でも会社の同僚に尾行された。何も間違ったことをしていないのに、新入社員の教育でも、会社側は彼の名前を出して非難した。これ以上のいじめはない。それでも、彼と仲間は会社を辞めず、はたらく者の権利を訴え続けた。

 私が入社した頃、そこまで人権を無視した処遇はなくなり、普通に仕事を任されていたが、昇進はなく部下も持っていなかった。

 ところが、不況で全国的にリストラの嵐が吹き荒れる中、転機が訪れる。会社は人員削減こそ行わなかったが、特別企画室(正確な名前は違うかもしれない)とかいう職場をつくり、余剰した管理職を次々に配転した。目的は、職場の上司に聞いても答えなかったが、大部屋に一人ひとつの机があるだけで具体的な仕事は与えられず、どうやら本人が自主的に辞職を言い出すまで閉じ込めておく場所らしかった。実態が公然のうわさとなっても、組合は対象が組合員でないことを理由に抗議も調査も行わなかった。

 そこで立ち上がったのが、彼だった。いじめられている管理職の中には、かつて彼を工場で小突き回し、個室に閉じ込め、尾行までして出世した人たちがいる。通常ならいい気味だと思っても無理はない。彼が支持する政党も、活動の敵対者を積極的に救おうとする動きはなかった。しかし、彼は、自分が受けた仕打ちは当時彼らが生きていくため会社に強制された結果であり、管理職であっても、はたらく仲間である限り、支援するのは当然だ、という信念から、職場新聞をはじめ、公然と支援キャンペーンを始めた。

 それは一見無謀なことのように思えた。しかし、彼の勇気は会社を動かし、ほとんどの職制を元のあるいは正常な職場に復帰させ、特別企画室を事実上解散に追い込んだ。職制たちは、ずっと後ろめたい思いをひきずっていたそうだが、その後、彼は昔の敵と一緒に酒を飲みながら歓談する仲になった。その後彼が昇進(彼の働きには全然見合わないけれど)したのが、この件と関係があるのかどうかは分からない。

 彼は、体制側が言うように、何でも画一的に反対するような人間ではない。彼にとって、はたらく者が皆幸せに近づくことが夢だったのであり、いじめられても、壁にあたっても、その夢を捨てなかったことが、ほんとうの勝利につながったのだと思う。

 彼ももう定年退職した。私が一身上の都合で東京の会社を辞めるときいただいたこれまでの職場新聞の束は、一生の宝物である。これだけのことをしても彼は少しも偉ぶることがなく、どんな活動も強制されてやるものではない、と笑う。

 それでも、どんな有名活動家よりも、私にとって、彼は、これからも、最も尊敬する師匠であり、目標であり続けるだろう。

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心の穴を ~ ほんとうに強い心

 教育基本法「改正」案が衆議院を通過した。通過したという表現もおかしなもので、きちんとした議論を与党が打ち切っておいて、抗議の欠席をした野党に責任をなすりつけたまま儀式的な採決をしたわけだから、通過などという言葉をあてるのは相応しくないだろう。

 しかし、この件は、また改めて書こう。

 都議会での発言に抗議した高校生からの手紙を受けて、石原都知事は甘えと切って捨てたそうだ。 ファイティング精神があればいじめられない、自殺宣言は甘え、という言い方は、結局すべて本人のせい、しかも原因が本人の素質にあるかのような差別的な発想である。

 いじめにあっても、どうしたら自殺せずに生きていけるか、小1の息子の方がよほど真剣に考えていた。

 親ばかと思われるだろうが、彼の意見を紹介したい。

 彼は、辛い時、困った時、「たすけて」と人に言うのは、弱いんじゃなくて、強い心なんだと言う。自分の弱さをさらけ出し、気持ちを吐き出すためには、心に穴を明けなくてはいけないが、その穴は自分しか明けられない。お母さんも、お父さんも、先生も明けることができない。だから、彼は今、そうした穴をいっぱい明けられるように、今は練習中らしい。

 幼稚園で教わったことを思い出して、そういう考えにいたったそうだ。娘や息子の通った幼稚園がずっと実践してきた本物の「心の教育」に、あらためて感謝の思いを抱いた。

 自分をありのままさらけ出すことは、ちっとも恥ずかしいことでも情けないことでもない。まっすぐ生きようとしているものほど、壁につきあたるものだ。それを知っている人間は強い。息子も、他の子ども達も、それをずっと忘れないでほしい。

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2006/11/15

「いじめられる方が悪い」という論理~自己不安の増殖

 出張中の韓国で、いきなり日本の中学生の自死について聞かれて驚いた。いじめによる連鎖的な子どもの自死は、韓国の新聞の1面で取り上げられるほど、国際的なニュースになっていたのだ。いじめに関し子ども達に最近行った世論調査で、「いじめられる方が悪い」という意見が多数を占めていたことにショックを受けていた私は、返事する言葉を失った。「大人が悪いんですよ」とひとこと言うと、相手も「その通りです」と頷いた。

 若者の心は弱い。生活の心配もないのに、たかが受験くらいを「生存競争」などと大げさに形容し、自分の目標のなさを世の中のせいにして甘えていられるほど弱い。彼らは、時として同じ受験生の苦しみに同情を覚えても、毎日生きるのに精一杯な人たちには冷淡だ。

 いじめは嫌だと思っても、被害者をかばえば自分もいじめられる、という先回りの不安感が、世論調査の回答にも影響しているように思う。本当に怖いのは、孤立することではなく、人間の道を踏み外すことだ。ものを盗むより、意図して他人を傷つけることの方が、ずっと悪い。そういうことを子ども達に大人が教えなくなった。それはひとりで40人もの個性に向き合わなくてはならない教員ではなく、1対1の親の仕事なのに。

 そもそも、いじめは中学校や高校の子どもの中だけにあるのではない。職場でも、地域でも、新井英一のブルース「ああ、この国では」の通り、この国は弱いものいじめばかりではないか。学校といえば、日の丸・君が代の強制に反対した教員に対する処分はいじめではないのか。それを正当だと言い張る限り、文部科学省にいじめについて語る資格はない。

 格差が広がる社会では、自分が志を果たすより、根拠無く誰かを見下して、安易な優越感にひたることで精神的安定を得ようとする。今のいじめに根拠も目標もありはしない。人々は、とにかくいじめる対象を求めているのであり、相手は誰でもよいのだ。それは時には特定の階級だったり、民族だったりする。いじめの無指向性を知っているからこそ、みんな必死でいじめる側にしがみつくのだ。

 「ファイティングスピリットがなければ、一生どこへ行ってもいじめられるのではないか」などという、石原都知事の無軌道な発言は、世の中には勝者と敗者しかいないという彼のステロタイプな世界観の現れだ。彼は、いじめる者もいじめられる者もボーダレス化しつつある現状が分かっていない。そう。彼のような特権階級を除いては。

 私は、いじめという言葉で一括りにすることで中身が薄められた虐待や犯罪を許せないし、それを知りながら「いじめられる方が悪い」とおそるおそる回答する臆病さを弁護できない。被害者は、反撃するにもつらい、親にも相談できないような、陰湿で人間の尊厳を傷つけるようないじめにあっているのだ。

 しかし、あえて言う。自死が何かを解決する、というナルシズムに逃げてはいけない。死んでも、しばらくは人は騒ぐかもしれないが、誰も君の身代わりになって問題を解決してはくれない。

 いじめよりも保身を優先する卑怯な大人、にお上の決めた教育基本法「改正」を中身も知らずに賛成する他人任せな大人、君たちの死を食い物にして恥じないマス・メディアなど、君たちの方から見限ってしまえ。その悲しみを怒りにかえろ。

 生きていれば、そのチャンスもある。

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2006/11/08

フセイン元大統領死刑判決 これだけの疑問

 イラク特別法廷がフセイン元大統領に死刑判決を言い渡したことについて、イラク攻撃支持の正当性を撤回しない安倍首相は、中間選挙の起死回生を狙うブッシュ大統領とともに、すぐさま歓迎のコメントを発表しました。

 しかし、頼みの米共和党は現時点で得票率約3割の惨敗。悪い独裁者だから死刑で当然だろう、程度の報道が目立つ日本とは異なり、諸外国メディアや国連では、裁判の正当性に疑問の声が多数上がっています。

 たとえば、国連は、8日配信したニュースレター
【UN RIGHTS EXPERT CALLS FOR INTERNATIONAL COURT TO RE-TRY SADDAM.】
(国連の人権専門家は、国際法廷にサダムの再審理を要求する)

で、裁判官や弁護士から独立して仕事をする特別書記Leandro Despouy氏のコメントを紹介し、30年間に行われた残虐行為の主犯を罰するためにイラク国内に法廷を設置したことは歓迎だが、この法廷は、多くの人が不当だとみなす占領期間に設置され、裁判官も非イラク市民が含まれ、資金もおもに米国に提供されている、とその公平性に疑問を投げかけました。法廷は、国際的な人権基準を満たしておらず、特に被告の弁護の権利が保証されていない、死刑制度を取り入れているのも前近代的だとも指摘しています。その上で、この評決は、イラクでの暴力と政治的宗教的対立を深刻にし、危機を地域全体に広げるのはほぼ確実である、と危機感を明確にしています。

 イラクの教科書は、現在もフセイン政権時代と同様国定ですが、歴史教育の現場では、敗戦直後の日本の「墨塗り」と同様教科書の一部が切り取られた後、激化した宗派の対立により統一した見解のめどが見出せないまま、フセイン時代から現在が切り捨てられています。米国とその傀儡が政治的意図で進めた裁判は、イラクから近代史の記憶そのものを奪い去ってしまうおそれもあります。

 昨年12月には、インターナショナル・アクション・センターが共同代表サラ・フランダースの名前で声明を発表し、フセインの裁判は、米国の侵略犯罪によるイラクの占領に合法性を与え、正当化するための試みであり、 正義や真実とは何ら関係ない、と痛烈に批判しました。そして、Leandro Despouy氏同様、占領下の法廷設置はジュネーブ条約違反であり、被告を孤立させ接見を禁止するなど、市民的政治的権利双方で国際人権条約に反すると指摘しています。

 アムネスティなどの人権団体も同様の批判をしています。

 死刑を禁ずるという発想がなかったであろう、ユダヤ教の口伝律法タルムードに描かれたはるか昔のユダヤ人社会でも、死刑は特別に慎重に扱われていたそうです。どんな悪人でも、一人の人間の命を合法に奪うのですから、有罪と判定される場合にはその日に決定せず、翌日まで繰り越して、その晩は酒も飲まず夜通し起きて、新たな無実の証拠が提出されるのに備えたといいます。今回の特別法廷は、古代ユダヤの知恵にも及ばないものです。

 フセイン元大統領の権利が厳しく制限される一方で、大量破壊兵器があると偽って攻撃をはじめ、数十万人のイラク人の命を奪い、インフラを意図的に破壊し、大地を放射能で汚染し、無実の市民を投獄した上陵辱した責任者は、何の処罰も権利制限もされていません。

 イギリスのクオリティ・ペーパー、ガーディアンが今月発表したカナダとメキシコ、それにイスラエルでの世論調査によると、「世界の平和を脅かしている人物」は、トップがオサマ・ビンラディンですが、2番目は金正日総書記を抜いてブッシュ大統領でした。さもありなん、です。(追記:記事を書いた後に報道されましたが、ラムズフェルド国防長官の更迭で幕を引いた積もりになってもだめです。)

 米国内メディアも、ニューヨーク・タイムズが6日付の社説で「政権中枢にあるイスラム教シーア派やクルド人勢力は、フセインへの懲罰を彼らの政治的目的のために利用した」と断じ、「完全な正義も公正さもなかった」と厳しく批判するなど、今後のイラク情勢には悲観的な見通しが目立ちます。

 相手がどのような罪を犯していても、それを公平に、法に基づいて裁く原則を無視することは許されません。まして、それが政治的目的によってゆがめられることがあってはなりません。

 国連や、世界のメディアがこれだけ疑問を呈しているのに、新しいイラクの第一歩などという、もう一方の犯罪者の言い分を鵜呑みにしているようでは、この国はまたしても行く道を誤ってしまうのではないでしょうか。

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2006/11/05

「生命」でなく「人権」を 瑞浪中の少女自殺について つづき

 瑞浪中の少女が自殺した事件で、学校側がいじめがあったことをようやく認めた。

 いじめを行ったとされる4人の生徒は、問題が報道されて以来学校を休んでいるという。その子たちに対して、自殺した少女の父親は「学校が不誠実な対応を続けて問題を長引かせたために4人が全部の罪を背負ってしまった。学校は4人にも謝罪しなくてはならない」と指摘した。胸が詰まる。簡単に言える言葉ではない。こうした父親に育てられた少女は、問題を他人に責任転嫁するのを潔しとせず、苦痛を背負いこんでしまったのかもしれない。

 学校側はカウンセラーを4人の家庭に派遣するという。しかし、「学校は4人にも謝罪しなくてはならない」という言葉の重みをどうとらえているのか疑問は残る。自殺した少女の父親が、4人やその保護者を憎んで当然なのに、それをしないのは、それが愛していた娘の望むことではない、と信じているからなのではないだろうか。加害者の親は、その切なさを理解できるまで苦しまなければならない。

 4人や学校が何回謝ろうと、死んだ娘は決して取り戻すことはできない。せめてこの事件に意味を与え、少女の14年間に意味を与えるためにできることは何だろう。4人が今度は被害者となっていじめが更に蔓延することは少女も父親も望んでいないだろう。いじめに加担した人はもちろん、かかわりの無かった人も問題を逃げずに受け止めることしかないのかもしれない。

 いじめによる自殺が起きると、校長が決まって言う講話は「生命を大事にしよう」というものだ。これほど無神経で無責任な対応もない。これでは亡くなった被害者に諭しているように聞えるではないか。そうでなくても、じゃあ、自殺しない程度ならいいのか、と問い返したくなる。「生命を大事にしよう」は当たり前だ。結果として相手の生命を大事にできなかった理由を考えることが重要なのだ。

 ここで、「人権」という言葉の出番になるはずなのだが、本来誰でも理解できる普遍的な「人権」を、あたかも難しく危険な考えのように遠ざけてきたのが今の教育行政にほかならない。

 「生命」という言葉を問題の収拾の切り札として安易に使う人は、「生命」を軽んじている人だ。もちろん人間は生きていることがいちばん大切だけれども、人間は生物的に生きているだけの存在ではないはずだ。ひとりひとりが、自分は生きている、生きていて嬉しい、と感じられなければ「生命を大事に」しているとはいわない。

 ニュージーランドの学校で行われている平和教育の「教師のための手引き」を、3年前広島のグリーン・ネットワークが翻訳した。そこにかかれている言葉の正直さと、それがNGOの協力も得て全国で実践されていることに、私は大きな感銘を受けた。そこには移住者と先住民とのきれいごとでない歴史の教訓が活かされている。

 ニュージーランドの子ども達は、相手と自分の意見や立場が違ったとき、紛争をどう解決するかを、議論やゲームを通して学ぶ。誰かが犠牲になって誰かが勝つということが排除され、どちらも勝つことが重要視される。そのためには、相手を思いやることももちんだが、怒りをその場任せに垂れ流すのではなく、自分の感情や考えを相手に理解できるように伝えることが目標になる。

 このコンパクトで簡潔なリーフが、日本の教育現場に示唆するものは大きい。しかし、それ私に紹介してくれた大庭里美さんも昨年急逝してしまわれた。なんとか広げていきたいと改めて思う。

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小さなぼくたちでも 心をひとつにすれば… 日本のうたごえ祭典in福井は大きな感動を残して閉幕

 日本のうたごえ祭典inふくい・北陸の大音楽会とコンサートⅡに参加しました。商業主義から自由な音楽の力を堪能できる、素晴らしいイベントでした。大音楽会は、中学生の娘と小学生の息子も連れて行きました。

 記録再生技術が発達し、音楽は何処でも周囲と切り離された個別の環境で鑑賞できるようになり、デジタル編集技術でつくられた演奏者の力量や意図を超えた華美な電子サウンドが氾濫する現在ですが、音楽とは、本来そういうものではなく、その場に一緒にいて演奏者と聴衆が一体となって体験する文化だと思います。とくに、第9以外ではめったに見られない数百人から五百人をこえる規模の大合唱のステージを、次々に体験できるのは、日本のうたごえ祭典ならでは醍醐味でしょう。

 日本海側ではじめて、全県でもわずか80万余の人口の県でこれだけの演奏会を開くのは並大抵の苦労ではなかったと思います。しかも、運営委員長だった西江さんが6月に事故で急逝するという出来事を乗り越えての開催でした。西江さんを引き継いだ伊藤さんはサラリと述べられただけですが、全国から集まった人の拍手は、その尽力が大きな実を結んだことを語っていました。

 私は賛同人として名を連ねながら、何のお手伝いもできなかったこと、本当に申し訳なく思います。実は日うたに参加するのは、「ぞうれっしゃ…」を初演した20年位前の愛知の祭典以来まだ2回目です。

 私が学生時代活動していた合唱団は、「生活に結びついた歌を、社会に明るい歌声を」をスローガンとして、働くものの歌や民主主義の旗をかかげた人々の歌を歌ってきましたが、私が在籍中一度も日うたに参加したことがありません。大先輩藤村記一郎さんの頃とは学生の気質も変わり、うたごえ運動を政治的なものとして避け、学内でつづいていた歌声祭典もわざわざ「うたごえ」とは独立したものですと断って開催するようになっていました。当時は技術を向上させることと、社会的な視点を持つことがひとりひとりの中で融合できていなかったのです。今考えると愚かなことだと思います。

 私たちとくらべるのも失礼ですが、音楽をだんだん趣味的にとらえていった私の合唱団や、中途半端な活動を超えられなかった当時の「学生のうたごえ」は既に無く、本当の「うたごえ」の方が、(昔のようにあちこちの職場にうたごえ喫茶、という風ではありませんが)根っこをはって生き続け新しい歌を生み続けていることに、感銘を受けずにはいられません。

 5日のコンサートでは、全国男声合唱団の労働歌の演奏に衝撃を受けました。自分も男声合唱団をやっていて、他の合唱団の力量にしびれたことが何回かありましたが、津波の様な声に身体を揺さぶられた、と感じたのははじめてでした。心の汚い部分を力ずくで吹き飛ばすようなそんな声だったのです。特に、うたごえ喫茶では定番の「仕事の歌」がこれほどかっこいい歌だったとは…。

 そして、4日の大音楽会で、これまでうたごえとは結びつかなかった(と私が誤解していただけかもしれませんが)人たち、特に高校生以下の若い人たちがたくさん参加していたのに励まされました。教条的、あるいは独りよがりになった学生のうたごえが消滅して久しいですが、この子ども達の力が、これから新しいうたごえや日本の文化を創っていくのではないか、と希望が湧いてきました。圧巻は第3部ほとんどの曲の伴奏と、独自ステージで活躍した武生東高校吹奏楽部です。ひとりひとりがしっとりソロをやれる技術と、踊りながら(コントラバスも!)ファンキーに演奏できるノリの良さを兼ね備えたチームで、これぞ青春!と、今の教育を取り巻く重い雰囲気を笑い飛ばすようなエネルギーを感じました。こうした若者たちを、日うたに結集させた運営委員会の見識と、努力に敬意を表したいと思います。

 武生東高校吹奏楽部は、「ぞうれっしゃがやってきた」の伴奏も担当しました。私が昔歌った時はピアノ伴奏でしたが、吹奏楽の伴奏がついて曲の深みが一層感じられるように思いました。20年間全国で歌われ、たくさんの人を繋いできた「ぞうれっしゃ…」は、きっと日本国民共通の財産になっていく作品だと思います。そこで歌われている感情は、決して大上段ではなく、分かりやすく、温かいものです。フィナーレでは、会場も一緒に「ぞうれっしゃよはしれ」を歌いましたが、「小さなぼくたちでも/心をひとつにすれば/夢だってかなうと/信じよう今こそ」というフレーズが、私はどうしても涙腺が緩んで歌えません。普通の言葉なのに、胸を揺さぶる切実さと説得力がこの組曲にはあります。

 あったか祭典のキャッチフレーズどおり、目に見えないいろんな配慮がありました。全国の仲間を迎えるため、「うたごえ祭典」のステッカーを掲示して待機していたタクシーは370台(!)に上るそうです。数字で言うと簡単ですが、タクシーの確保ひとつとっても、ひとことでいえないドラマがあったと思います。

 最後に、運営に当たった福井と全国の皆さんにもう一度心からの感謝と拍手をおくらせてください。今日ほど私の故郷が誇らしく思った日はありませんでした。

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2006/11/04

教育ってその程度なのか? 必修単位未履修問題を 教育を受ける権利の視点から

 大田昌秀さんが、人生で学ぶことほど楽しいものはない、と語っていたが、同感だ。学ぶことによって人間は強くなれるし、世界の美しさに気づくようになる。教育は、高等教育を受けた一部のエリートが国家に奉仕するためではなく、ひとりひとりが幸せになるために行われなければならない。

 高校の必修単位未履修問題は、発端から顛末まで首をかしげることばかりだ。大学が学生に求める学力基準が下がるわけではないのだから、現在の様な「ゆとり教育」の実施がかえって授業密度の負担を増し、現場で矛盾を生むことは最初から分かっていた。現場の声を軽視し、上意下達で済ましてきた文部省の体質が、問題とされるのは当然だ。

 学校の管理職校長も、一般教員も、民間企業と同様成果主義で処遇される。これは一見よいことのように見えるが、民間企業の成果主義が職場のチームワークを乱し、開発部門が失敗を避けがちになることによって、従業員の士気を低下させ、かえって日本企業の競争力を損なっていることが、最近は経済界寄りの研究機関からも指摘されるようになった。耐震偽装、原発のデータ改ざん、リコール隠し、JRの安全軽視。これらにもすべて、本質より表面的な点数を優先する危うさが影を落としている。均質で物言わぬ商品ではなく、生身の人間を相手にする学校で形式的な成果主義を導入した結果が、いじめの隠蔽であり、目先の成果に固執した単位未履修の全国的な蔓延だろう。

 しかし、教育問題のすべてを理屈抜きに教育基本法のせいにして今国会で「改正」を目指している安倍首相は、反対に新たな評価制度による教員の締め付けと、学校の序列化をはかろうとしている。愚かとしか言いようがない。

 悪いのは行政ばかりではない。大学を卒業しても大企業に入れるとは限らず、大企業に入社してもいつリストラされるか分からない今の日本社会で、旧態依然とした価値観にとらわれ、有名大学への入学のみが人生の成功者であるかの様な価値観しか子どもに与えられない親も問題である。未履修への対応策を検討している教育委員会や学校側に対し、どこやらの高校の保護者会が、受験生に負担を掛けないように配慮してほしい、という要望書を提出していたのを見てあきれた。要するに、未履修の学科など本音ではどうでもいいではないか、と言っているわけだ。

 本当にどうでもいいのか。履修されなかったのは、歴史、地理、現代社会、芸術、保健、家庭科などだ。世界の人と共有できる正しい歴史教育を、とわたし達が訴えてきたこの間、正しいも正しくないも、歴史教育自体割愛されてきたのである。つくる会を応援していた人も無駄な骨折りだったかもしれない。私自身、英語が好きだし、理系の人間だから、英語や数学の重要性に異議を唱える気はない。しかし、専門でなければ、英語や数学は中学校の内容が身についていればじゅうぶんだし、英語は学校以外でも勉強する機会はある。歴史、地理、現代社会は、体系的な情報とものの見方が必要で、興味を持った分野の調査を個人で行うには費用がかかりすぎることもあり、むしろ学校教育の優位性が顕著な分野である。英単語や文法を覚えても、世界や自国の歴史も知らない、芸術なんて興味がない、そんな根無し草みたいな若者が国際社会で何を語れるというのだろう。

 子どもは、必要な教育を受ける権利がある。現実的な対応として、ある程度授業時間の弾力化はやむを得ないかもしれない。しかし、足りない分をレポート提出(こんなもの丁寧に見て指導する時間が、ただでさえ忙しい教員にあるわけがない)などで茶を濁してはならない。

 過去にさかのぼって、自立した地球市民のひとりとなるに相応しい教育の機会を、政府の責任で補償すべきである。そして、教育が固定化したレールを走る手段ではなく、自由に自分の能力を開花させるとりくみであることを、学校、保護者、子ども達で再確認すべきだ。

 毎日新聞によると、「『教育は人間形成のため』と言っておきながら、受験の結果を出すためには何でもやっていいというのは矛盾している」「先生は(ライブドアの証券取引法違反事件について)『金を稼ぐために何をやってもいいというのはおかしい。社会のルールではやってはいけないことだ』と話していたのに、受験のためには何をやってもいいというのと同じではないか」と告発した男子高校生がいたそうだ。若者が一番まともなことを言う。彼は、物事を批判的に検証する力と、教育を受ける権利への無意識的な自覚を身に着けはじめている。こういう視点を得られたのなら、彼に関しては今回の不手際も無駄ではなかった。

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