« 2006年8月 | トップページ | 2006年10月 »

2006/09/10

米上院、フセイン政権とアルカイダとの関係を完全否定、しかし日本は…

 米上院の情報委員会が8日、イラク戦争開戦前、旧フセイン政権がアルカイダを「政権への脅威」と位置付け、アルカイダからの支援要請を拒否していたとする報告書を公表し、911テロとフセイン政権との関連を改めて完全に否定しました。大量破壊兵器がなかったことに加え、イラク攻撃はブッシュ政権の失政であることが、米国民にとってもますます共通認識となるでしょう。

 http://intelligence.senate.gov/phaseiiaccuracy.pdf

 イスラム原理主義のアルカイダと世俗主義のフセイン政権との協力がありえないことは、攻撃前から自明でしたが、米国家機関によって確認された意義は大きいと思います。

 ただし、調査結果が直接次の戦争の抑止力になるかどうかは分かりません。戦争を始めるには100%の確信など必要ないからです。主要な政治家やメディアが、敵を見つけて不安を煽れば、それが国民の中で繰り返し増幅されていきます。そうなれば、世論は、もし本当に敵が攻撃をしてきたらどうするのか、という集団内の脅迫に抗いきれなくなるのです。「北朝鮮からミサイルが飛んできたらどうなるのか」その声は残念ながらますます増幅しようとしています。

 また、ブッシュ政権に追従した小泉政権と英ブレア政権の責任も当然問われなければなりません。政権党の総裁選挙が行われる今こそ絶好のチャンスのはずですが、この国の国会は、60年前の戦争を清算できないだけでなく、現在進行中の戦争の意味を問い直す誠意さえありません。

 9日の赤旗の記事によれば、安倍首相誕生を熱望する若手議員らが、終戦記念日を前にした8月2日「軍歌を歌いつぐ会」を催し気勢を上げたそうです。参加者の中には軍用迷彩服を着用しモデルガンを手にするのが趣味という人もいるとか。彼らの世代はもちろん私同様戦争などまったく経験していません。彼らのイメージにあるのは、きっとハリウッドが供給する多くの戦争映画のようなかっこいい戦争だけなのでしょう。

 彼らのまとめ役の一人稲田朋美議員は「靖国神社というのは不戦の誓いをするところではなくて、『祖国に何かあれば後に続きます』と誓うところでなければならないんです」(月間「Will」9月号)と述べています。これは、仮にも「不戦の誓い」を名目に参拝していた小泉首相の立場をも大きく逸脱するものです。国連憲章で定められた例外規定を除き、戦争行為を国際的な犯罪とみなすというのは現代社会の合意事項です。国会議員や閣僚がそれに反する意見を述べることは許されません。第一、稲田議員自身が『祖国に何かあれば後に続』くつもりは全くないでしょう。鉄砲玉は小泉政治5年間で格差を広げられた貧困層であり、国会議員先生方は後方ではっぱをかけるだけと分かっているから、こんなリアリティのない発言が可能なのです。

 国を代表する政権党の新しい総裁が決まる時にも、前政権の顔色を伺い、その無条件継承を暗黙の了解とする。候補者は安倍晋三氏含めいずれもたいした実績も理念もありません。自民党でも過去はこうではありませんでした。

| | トラックバック (0)

2006/09/02

映画「ユナイテッド93」と追体験する思い、共感する思い

 アメリカ政府と軍産複合体は、軍事力と情報収集能力を独占し、地球すべてを米国流のイデオロギーと米国に利益を生み出す経済システムに作り変えようとしてきました。911が起こらなくても、その方向性はおそらく変更されなかったでしょうし、米国以外の地域に目を移せば、911規模の殺戮や見殺しは残念ながら珍しいものではありません。その意味で、911で世界が変わったという主張は何ら本質的なものではなく、せいぜいブッシュ政権が国際的枠組みに協力しない口実に「テロ」が加わった程度のものだと思います。

 911で大きな変化があったとすれば、歴史上繰り返されてきた殺戮、それは結局一部の資本家や官僚機構が財を成すために、正義や宗教の名の下に本来に憎めない人間同士が追い立てられて行っている殺戮にすぎないのですが、その空しさを支配側の国家の国民が気づきかけた、ということでしょう。どんな目的でもテロを許すことはできないが、報復の連鎖を許すことはできない。米市民の悲しみの深さとそれに正対する勇気を、今日観た映画「ユナイテッド93」で感じることができました。

 スター俳優による客寄せや悲劇に乗じた美談の類は最初から頭にないのは勿論、時間の伸縮やパースの誇張も、BGMさえほとんどありません。最後も、墜落を暗示する叫びと操縦席の窓からの風景が写った直後暗転して終わりです。飛行機が墜落して炎上したり、遺族が泣き崩れたりする、劇的、時には誘導的な場面は執拗に排除されていました。結論を出さず、事実は事実のまま観客に投げ出されます。まだ公開されていませんが同じく911を扱った映画「WTC」とは性格を異にしているようです。

 国内線搭乗前のゲートの雰囲気、乗務員と乗客との会話、あまりにありふれた日常から映画は始まります。ついこの間米国を飛んで回ったばかりなので、その日常自体私にとっては生々しい。テロの可能性を指摘されながらブッシュ政権が対応を怠ったことが「華氏911」で描かれていましたが、肝心の時に誰もおらず決定が下せないシステム等、超大国アメリカの安全が空洞化してることを容赦なく描き出します。その中で、予想もしない事態の展開に必死に対応しようとしながらも、連携がとれず、結局すべて後手に回ってしまう関係機関職員の焦燥と困惑があまりにリアルで、観ていて心臓が苦しくなるほどでした。

 犠牲となった乗客やクルーを演じる俳優は、本人の年齢だけでなく、遺族の証言によって本人の顔立ちに似た俳優が選ばれ、実際のパイロットや管制官も起用されたといいます。映画の中で、首都にハイジャック機を近づけさせないためには撃墜も止む無しという会話も流れます。遺族たちはどんなに胸が締め付けられる思いでこの映画の制作に関わったのでしょうか。

 特筆すべきは、ハイジャック犯の描き方です。911以降おそらく無数に作られたであろう大小のプロパガンダ映画と同様の意図なら、彼らを犠牲者とはまったく接点のない異次元の悪魔にしたてあげればいいでしょう。しかし、事件から5年近くを経て公開されたこの映画のハイジャック犯は、自分自身向き合わねばならない死に怯え、任務の遂行に不安と迷いを露にする同じ血の通った人間として描かれています。だからこそ、この映画は、何故そういう人間同志が命を奪いあわなければならないのか、それを考え続けろ、とわたし達に迫ってくるのです。

 アメリカという帝国は、911の犠牲者や遺族の悲しみをもその暴力的拡張に利用しました。わたし達は、テロによっても国家による戦争の発動によっても、命の奪い合いを止めることはできない、とブッシュ政権の「対テロ戦争」に反対し続けてきました。ソルトレーク五輪中もアフガンを攻撃しながらWTCで焼け残った星条旗を持って入場するなど、当時米国を覆った命に対する軽重の意識の激しさに憤って来ました。

 世間一般では911はもう歴史的出来事になったかのようです。しかし、映画に描かれたような死に方をした犠牲者の遺族にとって、この5年間で痛みが癒えることはなかったでしょう。映画公開に寄せて「93便家族」の方々は「何が起きたのか、どうして起きたのかを記憶にとどめておかなければなりません。忘れてしまうことで、二度とあんな惨事は起きないと、自分たちをだますことはできません」と語っています。それは、もちろんこの5年間でアメリカ帝国に殺されたアフガン、イラク、パレスチナの人に対しても同じですが、ブッシュ政権を批判するあまり、万一、日本の平和運動が911の犠牲者や遺族の痛みを軽視する傾向があったとしたら、恐ろしいと思います。

 ネット上のレビューにもありましたが、わたし達はこの物語の結末を知っているのに、それでも、何か奇跡が起こって助かってほしいと思うのです。ユナイテッド93便が離陸する場面で、離陸するな、と指を組んでしまうし、犯人が緊張に引きつった表情で座席に待機している時は、今からでも思いとどまれ、と声をかけたくなってしまう。そして、墜落直前の乗客の絶望と勇気(ここで見るのは、国家や会社に強制・鼓舞された「勇気」ではなく、自発的な裸の人間の勇気です)を、わたし達は再体験しなければなりません。

 映画館には意外にも若いカップルがたくさんいました。恋人と観るこの映画が、その後の二人の人生にとって、大きな糧となることを祈ります。まだご覧になっていない方は、時間を作ってでも観てください。

====================================================
(2006.9.14 追記)

 そっけない終わり方を選んだグリーングラス監督の意図がについて、最近気付いたことがあります。

 映画は後半、ほとんど飛行機のキャビン内だけの描写だけで進んでいきますが、もし、飛行機が墜落して炎上する場面を写したら、その瞬間観客は飛行機の息苦しいキャビンから解放され、その悲惨を外から見下ろす立場になってしまいます。そうしたら、わたし達は、自分なりにこの出来事にけりをつけ、簡単に突き放してしまうかもしれません。

 監督は、わたし達観客に、どこまでも、飛行機の乗客、乗員、そしてハイジャック犯と一緒に悩み、悲しみ、その思いを引き継いでほしかったから、このような終わり方を選んだのではないでしょうか。

 目にしみる緑の農地を見た次の瞬間の暗転。これはまさに乗客、乗員、そしてハイジャック犯が体験したことです。そして、亡くなった方々や遺族にとって、ユナイテッド93の出来事はまだ決着がついていない。その暗闇は今も続いているわけです。

 911を、評論家としてでなく、犠牲になった人たち(それは、ハイジャック犯も含むのだとわたしは思います)とどこまでも一緒に苦しみぬいた先に初めて、この暗転の闇が明けてくるのだと思います。

 わたし達もまた、今なお闇を手探りでもがいているのです。

====================================================

| | トラックバック (0)

« 2006年8月 | トップページ | 2006年10月 »