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2006/07/30

「キリクと魔女」 たたかいとは真実を知ること

 福井子ども劇場の企画で「キリクと魔女」の上映会があり、家族で観にいきました。その感動は、涙が出てくる、という手のものではないし、深く静かに心の底に定着する、といったものです。

http://www.albatros-film.com/movie/kirikou/

 このフランス製アニメーションは、1999年フランスで大ヒットし、2003年にジプリの配給で全国公開されましたから、すでにご覧になった方も少なくないと思います。私は、当時この作品の存在さえ知らず、何の予備知識もなしに鑑賞できたことは、ある意味幸運だったかもしれません。

 まずは、見慣れた日本やアメリカのアニメとは異質の映像に引き込まれました。知的で透明感のある色彩が最後まで貫かれ、B級冒険ものにありがちな幼稚な色使いはまったくありません。植物の描き方や群集のポーズのとり方が、私の好きなフランス人画家ルソーに少し似ているな、と思って、帰ってから調べたら、ミッシェル・オスロ監督がそのようなことを意識した由語っていました。登場人物の表情も、凛として美しい。

 アフリカの寓話が素材ということですが、映像も音楽もアフリカ的な匂いを強調(非人間的な存在としての呪い鬼は、そのロボット的な不気味さをアフリカ伝統芸術の形象化でより深めています)しながら、むしろ地球上のどことも限定できない人間始原の物語にまで高められている気がします。

 主人公のキリクは、自分の力で母親のお腹から生まれるやいなや、村を苦しめている魔女とたたかいに出かけます。

 その社会が深刻な危機に瀕した時、子どもや若者が彗星のように現れて救世主となる、というパターンは世界各地の伝説に共通して見られますし、歴史上も、ジャンヌ・ダルクや、天草四郎等がいます。しかし、その中で、子どもに大人ができない何を託したか、という点では様々です。名作童話「ぺにろいやるのおにたいじ」では、無垢な少年ぺにろいやるの前に鬼は暴力を恥じ、子どもに戻ってしまいますが、キリクに託されたものは、単なる無垢な魂だけではありませんでした。

 キリクは、何よりも「真実は何か」ということを納得できるまで知りたい、と願ったのであり、キリクのたたかいの目標は魔女を打ち倒すことではなく、なぜ魔女がいじわるをするのか、を自分の力で確かめることだったのです。極論すれば、大団円は、その結果にすぎません。

 村の人たちが味わっている理不尽な苦しみは、魔女という絶対的な存在に対する無力感から倍増します。しかし、その絶対的な存在は、それ自体がどこか別の世界からやってきたものではなく、自分たちがつくりあげたものにすぎない。絶対的な悪を支えているのは、普通の村人の間の不信や疑惑であり、迷信に頼り自立しようとしない弱い心だったのです。

 ですから、世界をありのままに見て語る賢者としての祖父に村人を近づけさせないよう、魔女は真実と村人の間に自ら結界をつくって監視していました、真実は、必ずあるものだけれども、それは努力をしてかち取らなければならない、そこでこそ、人間は自由になれる、という寓話をこれだけ分かりやすく映像化した作品は少ないでしょう。

 平和を求めるたたかいも、キリクのように、どこまでも真実を探し出そうとすることが何より重要であると改めて思いました。そのためには、もう大人になってしまった私たちは、誰が考えても分かるような迷信だけでなく、自分が自分自身の偏見のとりでから世界を見ていないか、いつも謙虚に自分自身を見つめなおさなければなりません。

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