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2006/05/30

法律による子どもの支配と所沢高校事件

 先週のサンデープロジェクト(21日)で、町村信孝元文相は「心と態度は表裏一体だ」「内心の強制まではしないが教育には一定程度強制が入る。一定の強制力がないと教育そのものが成り立たない」と述べ、教育現場での強制を正当化した上で、「法律にもとづいてやることはなんら『不当な支配』にあたらないと明確にする」(いずれも発言の引用は赤旗22日記事)と、教育基本法改定の目的がその考えの延長戦にあることを改めて明言しました。

 現職の小坂文科相ではなくて、町村氏を出席させた経緯を私は知りませんが、文相時代の町村氏というと思い出すのはいわゆる所沢高校事件です。

 当時の埼玉県立所沢高校は、「自由・自主・自立」の伝統を大事にし、1990年は「生徒会権利章典」がつくられ、生徒一人ひとりの服装・頭髪の自由や思想の自由を侵してはならないという基本的なルールも確立させていました。卒業式や入学式も、生徒が話し合い教職員の支持も得て運営してきたのです。ところが1997年、新しく赴任してきたU校長が、生徒総会と職員会議で承認した「日の丸・君が代に関する決議文」を無視し、入学式で突然ポケットから日の丸をだして演台にのせ、ラジカセで君が代を流し始めたことから、混乱が始まりました。冷静に話し合いを求める生徒に対し、校長や県教育委員会は「生徒は指導されるもの。話し合う対象ではない」と、その後も取り合わず、98年3月の卒業式は当局側と生徒側が分裂して開催する不幸な事態となり、さらにその年4月の入学式前当局は、入学予定者の家に当局側の入学式参加を入学の条件とする脅迫文まがいの文章まで送り付けました。(所沢高校生の名誉のために付け加えると、「分裂」卒業式でも、生徒や教職員側は、当局側の式出席を妨害したり非難したりするようなことは一切していません。生徒の方が当局よりよほど大人だったわけです)

 この状況に対し、当時「こころの教育」を説きながらサッカーくじ推進に余念のなかった町村文相は、「自由を履き違えている」と、生徒側を批判し当局側の非を認めようとしませんでした。残念ながら、当時この事件に対する一般の反応も概ね町村氏と同様でした。要約すると「学校は社会に比べて自由といっても、ある程度の規律は必要」「一部の教職員が生徒を扇動して特定の思想を押し付けようとしている」といったところでしょうか。多くの投稿諸子は、「君が代」や「日の丸」を受容するのが当たり前で、拒否するのが「偏向している」と決め付けていますが、その根拠は誰も示していません。この国に住んでいる人の中には、戦争や長い差別の体験によって日の丸や君が代を苦痛と感じる方が事実いて、「国歌」や、「国旗」を自らの意思で認めたくない人も、少数ですがいるわけです。まずは、明治以降の日本の歴史を正確に教えた上で、「日の丸」や「君が代」を認めるかどうか生徒に議論させるのが教育ではないでしょうか。

  学校は知識の修得だけでなく、民主主義の道場でなければなりません。生徒が選択した結果としてそれが「政治的」な内容を含んでいるのなら何も問題はありません。高校生は勉強に専念し政治にコミットすべきでない、というのは、高校生の能力を低く見過ぎています。自分自身の悩みや社会に対する不満を、民主主義の手続きを通して変えていくことを学ぶこと、これ以上に大切な勉強はない言っても過言ではありません。1994年日本も締結した子どもの権利条約第12条には、「子どもは、自分に関係があることについて、自分の意見を述べる権利がある。子どもの意見は、子どもの年齢や成長に応じて、十分に尊重される。(定者吉人訳)」と書かれてあります。

 今、愛国心を通信簿で評価している学校が少なくないことが分かり、国会で問題になっています。小泉首相や小坂文科相は、白々しくも予想外のことのように答弁していますが、こんな詰まらないこと上から指導されなくて誰がやるというのでしょう。

 議論は愛国心に絞られているようですが、愛国心に限らず、内心を評価すること自体が問題なのだと思います。社会生活を営む以上、目に見える行動が適切に評価指導されることは必要でしょうが、内心などは定量的に評価できるはずもないわけです。共謀罪は、実際に行われた犯罪行為をすでに決められた法律に基づいて客観的に処罰するという罪刑法定主義の原則を無視して、こいつは悪いことをしそうだという内心を勝手に評価して裁いてしまうものですが、子どもの心が評価できるという発想とつながっていることを指摘したいと思います。

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2006/05/27

戦わない勇気~不戦から積極的平和へ

 以下は、昨年2005年の憲法記念日に福井で私がお話をさせていただいたときの原稿です。部分的には振るい情報や訂正すべき部分もあるかもしれませんが、主論は変更ないと考え、あえてそのまま再掲します。

 長いですけど、私の原点であり、目いっぱいの思いをこめた文章です。お読みいただければ幸いです。

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「わが国は、太平洋、日本海の波洗う美しい島々からなる。水清く緑濃く、四季巡り五穀豊かに、命満ちて幸多い国である」 これは、最終案からは削られたものの、自民党の新憲法前文小委員会が、冒頭として提案した文章です。いかにも自己陶酔に満ちた文章ですが、この文章がこのまま提示されたら、今は結構支持を集めるのではないかと、私は心配です。
 国民に痛みを求め続ける小泉流政治の下で、国民は閉塞感を高めています。そういう時期は、内容はともかく見せかけの変革や美辞麗句に心を奪われやすいからです。

 問題が起こったとき、対立する2者のどちらかにつくのは容易です。北朝鮮は客観的に見て問題の多い国ですが、好む好まざるにかかわらず、一衣帯水の関係にある隣国とは付き合い続けていかなければなりません。それを無視して、すべてを犯罪扱いし強硬手段に訴えることは、日本にとってもいい結果をもたらさないと思います。
 拉致犯罪を徹底的に追求し補償を求めることは当然ですが、だからといって、横田めぐみさんの遺骨鑑定結果を捏造したり、国際法を無視して撃沈した他国の船を改造して「不審船」にしたてあげていいという理屈はありません。日本政府の一連の北朝鮮政策は、むしろ日本の要求の正当性を傷つけ、諸外国の協力をとりつけにくくしているのです。
 南北朝鮮の分断も、さかのぼれば、アジア太平洋戦争中38度線より北を関東軍が、それより南を大本営直轄軍が統治していたことに由来します。日本が、ソ連が宣戦布告する前にポツダム宣言を受諾していれば、朝鮮民族が米ソ二大国の代理戦争の犠牲になることはなかったかもしれません。

 小泉首相の靖国神社参拝、歪んだ歴史教育、領土問題、国連常任理事国問題などに反発するアジア諸国の抗議行動が起こったとき、日本の識者と呼ばれる人の反応のひとつに、「中国の若者や留学生は、日本がこれまで中国に対し、7兆円ものODAを行っていることを知らないし、中国政府もそれを周知させていない」というのがあります。
 これは悪意に満ちた世論操作です。皆さんは、海外で2000万人の生命を奪ったアジア太平洋戦争の賠償として、日本がどれだけの金額を給付したかご存知ですか。賠償と準賠償を合わせても6565億9290万円。しかも、対象国の中には、「日本人民も軍国主義の共通の被害者である」として賠償を放棄した中国は含まれていません。旧大蔵省は、これらの賠償を70年代に完了済みとしており、しかも給付開始を高度成長期まで引き伸ばした結果、負担が軽減されただけでなく、企業進出の足がかりとなったと自慢までしています。
 一方、同じ枢軸国であったドイツは、未だに給付を継続しており、2030年までの給付予定総額は日本円にして約9兆6千億円に達します。もし中国が賠償を放棄せず、日本が国際法上求められる賠償額を支払っていたら、戦後の経済復興は相当遅れたことでしょう。
 日本が賠償を免れた理由として、被害者であるアジア諸国との力関係や米国の圧力がありました。しかし、それだけではなく、日本は今後いっさい戦争をしない、と新しい憲法で明確に宣言したことにより、戦争に対する償いを諸外国が猶予してくれたことを忘れることはできません。日本の繁栄は、アジア諸国からの借り物なのだと、私は考えます。いつまで諸外国はその返済を待ってくれるのでしょうか。

 さて、私達はこれまで何度も「9条があるから日本は戦争に巻き込まれずにすんだ」と話してきました。しかし、ご存知のように、今も世界中で武力紛争、あるいはジェノサイドと呼ぶべき人権侵害が起こっています。それに目を瞑って自国が戦争していない状態だけを目指すなら、平和主義を「きれい事を言う無責任主義」と執拗に非難する西部邁氏らに反論するのは難しいでしょう。日本国憲法が規定している平和主義はその程度のものではないはずです。
 侵略戦争をしない、と宣言した憲法は日本国だけではありません。古くは1791年革命後のフランス憲法が「征服を目的とした戦争はこれを放棄する」とし、1931年のスペイン憲法は第6条で「スペインは国家の政策の手段としての戦争を放棄する」と述べています。1947年のイタリア憲法第11条にも「イタリア国は、他国民の自由を侵害する手段として、および国際紛争を解決する方法として、戦争を否認し、云々‥」と明記され、イラク反戦運動の根拠のひとつになりました。サンフランシスコ講和条約で日本がその遵守を約束した国連憲章第2章をあえてあげるまでもなく、国家として戦争を拒否することは、決して異常なことでも特別なことでもありません。

 しかし、それでも戦争はなかなか無くなりませんでした。その理由は、侵略ではなく自衛を口実とすればこれらの文言に抵触することなく武力行使が可能なこと、戦争を拒否するための具体的な手段が規定されなかったことにあるのではないでしょうか。
 日本国憲法は、その具体的な手段として戦力を放棄することを明記しました。9条第2項の「陸海空軍その他の戦力」という用語が指す範囲は、元になった英文で"land,sea,and air force, as well as war potential"という包括的なものです。国際法上"Logistics"(兵站)にあたるイラクでの自衛隊の任務と装備が"war potential"に当たることは言うまでもありません。
 また、9条が放棄しているのは侵略戦争だけであり、独立国である以上自衛権を放棄することはできないという解釈が今は主流ですが、9条の現実的な起草者とも言われる幣原喜重郎氏は1946年貴族院での演説で「或る範囲の武力制裁を合理化、合法化せんとするが如きは、過去に於ける幾多の失敗を繰り返す所以」と述べ、自衛権も含めた武力行使をはっきり禁じています。今の自民党政治家の大先輩吉田茂氏も、1946年首相当時、共産党の野坂参三氏の質問に対し「正当防衛権を認むることが偶々戦争を誘発する所以と思うのであります」と答弁しています。

 万一外部から武力攻撃を受けても反撃しない、ということですから、国民の生命や財産を護るには、攻撃を予防するしか方法が無い。アジア太平洋戦争を経験した日本人はそこまで背水の陣をひいた。逆に言えば、そこまで徹底することが当時の国際社会の要請だったと言えるでしょう。
 もっとも、9条が存在を禁じているのは国家組織としての軍隊であって、個人個人や私的な組織の武力抵抗については言及していません。しかし、ユーゴスラビアや東ティモールの内戦等を見ると、国民の合意の無い民兵同士の戦闘が、正規軍同士の戦闘以上に悲惨な結果をもたらす場合がありますし、アメリカ占領軍に対するイラクの抵抗組織の反撃は正当だとしても、結果として非戦闘員を含めた過剰報復の連鎖を招きやすいのも事実です。やはり日本国憲法の戦争放棄の原則は、自ら無条件の戦争不参加を宣言することで戦争を起こさせないことに集約されると考えていいのではないでしょうか。

 世界には様々な民族が生活しており、そこには異なった立場や文化があります。経済は1本の物差しで計ることができますが、宗教や文化はそれぞれがそれぞれの物差しを持っていて、優劣の順位をつけられるものではありません。それらが地球という限られた資源を分け合っている以上、個々の違いを認めた上で、できるだけ衝突が少ないようなシステムを合意する必要があります。そのための現実的な提案の歴史が、各国の憲法や国際法における平和や人権思想の歴史なのだと思います。
 ですから、あまりに理想的だと揶揄される憲法の平和主義も、現実的具体的な方法論としてとらえなおしたいのです。13世紀イギリスの政治家ブラクトンが「君主はなんびとの下にも立たないが、神と法の下に立つ」と法の支配を説く前、今日のように法治主義が世界じゅうに行き渡ることを、誰が予見できたでしょうか。奴隷が解放される前も、多くの人々はその苦しみが永遠に続く宿命だと感じていたのではないでしょうか。フランス革命で市民が「あらゆる主権の原理は、本質的に国民に存する」と宣言したとき、それはまさにこれからの目標であり、現状の追認ではなかったはずです。

 戦後60年、日本人は9条を支持してきましたが、それは総体として「9条があるから大丈夫」というような消極的な姿勢だったように思えてなりません。
 戦争とは国家同士が行うものです。それに合法性を認めることは、国家のために死ぬ個人を認めること、すなわち、国家の意志が、生命に関する事まで個人の意志に優先することを承認することに他なりません。だからこそ、小泉首相は、靖国を何度も参拝してそこで祀られる戦死者の準備をしているのだし、イラクの人質を救済することよりも自国の軍隊が駐留を続けることを選んだのです。しかし、日本国憲法は前文の冒頭で、先に紹介した歯の浮くような文章の代わりに、「そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである」という実務的な文章をおき、国家が国民に優先することを認めません。

 憲法前文は続いて、「われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」と、日本国民だけでなく、世界中のすべての人間の平和的生存権を高らかに謳いあげています。
 第三世界の多くにおいて、人は戦争は無くても生きること自体が苛酷であり、飢えや疾病によって生は短く、貧しさのため人生を自分で選択できない状態におかれています。戦闘行為がないことイコール幸福な状態ではありません。平和学という新しい学問を創始したノルウェーのガルトゥング博士は、これに対し、社会正義が実現され、人権が擁護され、個人が苦難や窮乏から解放されて自由に能力を花開かせる社会の状態を「積極的平和」と名づけました。日本国憲法が目指した平和とはまさにこのような平和であり、武器で脅したり金で買われた平和ではありません。それは同時に、ピンの先のボールのような危うい平和ではなく、復元力のある安定した平和であり、軍事力という余分なコストが不要となる平和です。

 日本人は日本のことだけを考えていいのか、テロを撲滅するために血や汗を流せ、と改憲勢力が問いかけている今こそ、現実的で論理的な解決策として、日本国憲法の平和主義を提示するチャンスなのです。
 具体的な取組みの一例として、無防備地域宣言があります。ジュネーブ条約追加議定書は、「戦闘員、移動兵器の撤去」「軍事行動を支援しない」など4項目を満たす地域を「無防備地域」と指定し、これを攻撃した場合は、無条件に犯罪とみなすと規定しています。日本では、昨年3月に大阪で無防備地域宣言全国ネットワークが結成され、全国に波及しています。

 最後に、宮沢賢治が「銀河鉄道の夜」第3次稿で、ブルカニロ博士という人物に託した言葉を紹介します。
「みんながめいめいじぶんの神さまがほんとうの神さまだというだろう。けれどもお互いほかの神さまを信ずる人たちのしたことでも涙がこぼれるだろう」
 殺し合いを始めるにはとほうもない覚悟と勇気が必要です。しかし、それを避けるために丸腰で粘り強く話し合うことには、もっと大きな覚悟と勇気が必要です。同じ涙を流すなら、生かしあうためにこそ涙を流そうではありませんか。(2005.5.3)

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赤字と格差を固定化した小泉政権の5年間

 年収一千万円以上で今後の消費を「増える」とする人が「減る」を上回った一方、年収六百万円以下では「減る」度合いが一層高まっていることが、内閣府などの外郭団体「日本リサーチ総合研究所」が25日公表した調査で分かったそうです。

 平たく言えば、金持ちは益々お金を使う余裕が増えたが、貧乏人はますます苦しくなってきたということでしょう。各層で消費が減ると回答した理由にも差があります。年収800万以上の世帯は、将来に備えた貯金やローン返済のためであり、600万円以下では、医療費の負担増や雇用不安がメインになります。貧乏人はローンをする自力もない、というところでしょうか。

 ところで、年収600万円以下というと、総世帯数のどれくらいの割合を占めるのでしょう。上場企業に20年以上勤めている私でさえ地方都市のシングルカムでは600万円に全然届きません。冒頭の評価は、国民の大多数で「『減る』度合いが一層高まっている」と読みかえられるのではないでしょうか。

 11月まで続けば戦後最長である「いざなぎ景気」(57ヶ月)を超えるといわれる景気回復の中で、大企業は最高の利益を更新し続けているのに、小泉政権発足後、生活不安度指数は部分的な上下を繰り返しながらも、バブル期はもちろん、バブル崩壊後の平均値にも回復していません。

 http://www.research-soken.or.jp/reports/csi/165_2.htm

 庶民の懐だけではありません。小泉政権は改革改革と呪文を唱えながら、この5年間で経済を決定的にだめにしました。

 5年間で増えた累積赤字がなんと400兆円。どこが「スリムで簡素な政府」なのでしょうか。とるべき大企業から税をとらず、銀行や大企業の救済と米国のいいなりの軍備に金を注ぎ込んだ結果です。これに対し、小泉首相は国民の個人金融資産がまだ1300兆以上あるから、財政赤字の累積が800兆を超えてきても問題ない等と開き直ったうえ、失政のツケを消費税等大幅増税で埋め合わせようとしています。しかも、その資産額には国の借金を立て替えている国債分が含まれており、郵政民営化によって国民の資産が丸ごと海外投資ビジネスの対象になれば、もうどうなるか分かりません。

 また、自民税調査は21日、子育て支援減税の財源を確保するため、所得税の扶養控除の対象から成人したニート、フリーターを対象から外す方向で検討に入っています。子育ての負担軽減という趣旨からはずれようが何しようが、収入が一定以下の親族であれば、年齢に関係なく扶養控除の対象となる現状からさらに税をとっていいということにはなりません。

 ニートやフリーターの人たちに対し、尻をたたき追い詰めれば職につくという発想が貧困です。

 就労意欲さえあれば一定の仕事に就けるのなら、苦労はしません。グローバリゼーションだ、これからは能力主義だ、と一方的なイデオロギーを押し付け、大企業のリストラと非正従業員化を推進し、零細企業を倒産に追い込んで地場産業を枯渇させたのは誰なのでしょうか。派遣でいろんな職種を経験したから今はどんな仕事でもやりがいがある、と女性の管理職が語る派遣会社のCMがありましたが、こんな現実はあったとしても例外中の例外でしょう。

 松下が史上最高レベルの利益をあげる一方で、その城下町門真市の国保料納付率は約75%と全国最低レベルだそうです。リストラで月の収入10万円という世帯に国保料未払い8万円の一括請求が来る。トヨタがGMを抜いて史上最高の利益を更新し続ける一方で、真面目に働いても食事は40円のうどんしか食べられない若夫婦がいます。

 「勝ち組」は、勝手に勝ち上がったのでさえなく、ひきかえに膨大な貧困層を生み出さなければありえなかったのです。

 その証拠に、昨年2月、OECDが発表した調査結果によると、日本の貧困率(可処分所得の平均値の50%以下の所得しかない人の割合)は15.3%で、メキシコ(20.3%)、アメリカ(17.1%)、トルコ(15.9%)、アイルランド(15.4%)に次いで高く、調査対象の27
ヶ国中ワースト5に転落しているのです。

 http://tinyurl.com/7vtoc

 これを失政といわずして、なんといいましょうや。

 今年2月、国会で格差の拡大を指摘された小泉首相は、「貧困層をなくす対策と同時に、成功をねたむ風潮や能力のある人を引っ張る風潮は厳に慎んでいかないと、社会の発展はない」と正当化しましたが、近代国家において、格差増大助長を公言し、弱者を切り捨てるのを是とするなら、政府の存在意味はありません。

 小泉首相や、最近騒々しい「ポスト小泉」の人たちは、日本でもアメリカのように戦争のために貧困を固定しようと思っているのでしょうか。

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与党と民主党の「国民投票法案」を比較して

 与党と民主党は26日、憲法改定正手続きを定める国民投票法案を個別に衆院に提出し、両案は6月1日の衆院本会議で趣旨説明と質疑が行われ、審議入りする見通しといわれます。

 これに対し共産党、社民党は、形式的な法整備ではなく9条などを改悪するための手続きを狙ったものであり、会期末のドサクサに紛れて提出することは許されない、と批判しました。もともとこの法案を今国会に提出することは小泉政権と前原民主党とで合意されていたものですが、代表が小沢氏に変わった民主党が憲法以外の法案においても適用を盛り込むなど「対決色」を強め、共同提出が見送られました。とはいえ、どちらも憲法改定の法案作りに積極的な点で基本的に変わるものではありません。

 そのおもな違いは下記で整理されています。
 http://www.dpj.or.jp/faxnews/pdf/20060526150413.pdf

 具体的に何が違うのか、気づいた点を簡単に指摘してみたいと思います。政府主導の改憲がいけないというのは繰り返し指摘してきましたから、ここで法案の条文に関することのみに絞ります。ただし、素人がとりあえず気づいたことですから、網羅的なものではありません。

1.【投票権者の範囲】について、憲法の改定は、日本に住む全ての人の運命にかかわることであり、国政選挙投票の条件とLINKしなければならない理由はありませんから、できるだけ広い人を投票対象とすることが望まれます。年齢は自民党の20歳以上に対して、民主党案は18歳以上となっています。民主党の方がよりマシとは言えます。もとより国政選挙でも今は18歳以上が国際的な主流となっています。しかし、憲法改定の影響をうけるのは実は国民だけではないのです。税金を納めながらその対価である政治的権利を認められない在日コリアンの方々をはじめとする在日外国人の投票権も認めるべきです。また、障がい者や長期海外滞在者など物理的に投票所へいけない人、投票の意味を理解しづらい人の投票権もその保障が文章で担保されていなければならないと思います。こうした人たち(海外に派兵される自衛官などはまさにそうでしょう)は、改定の影響をもっとも大きく受ける人たちだからです。

2.【投票用紙への賛否の記載方法と「過半数」の意義】について、自民党の「有効投票総数の過半数で決める」というのは論外です。民主党の「無効票も含めた投票総数の過半数」というのも、大して変わりありません。これでは、前項でのべた物理的に投票所へいけない人の投票権は容易に無視されうるでしょう。また、投票に関心を集める努力を怠りさえすれば、政府案に賛成の結果は簡単に得られてしまうでしょう。憲法改定という一大事においては、投票総数ではなく、たとえば先般岩国で行われた住民投票のように、投票率が規定に満たない場合は無効とすべきだと私は考えます。そうすれば、必然的に十分な時間をかけて国民的議論を起こさざるを得なくなります。

3.【公務員等・教育者の地位利用による国民投票運動の禁止の是非】について。これも自民党の「禁止する」は論外。とにかく、憲法改定には全ての国民が、提出された改憲案が想定していなかったような条件からも、どんどん意見を出し、納得した上で投票することが絶対条件になります。それを制限することは最大限排除されなければなりません。

4.【買収・利害誘導罪の是非】について。自民党がおざなりの規定を設けているのに対し、民主案では「国民の良識に任せるべき」となっていますが、理由が分かりません。ご存知のように、日本の選挙は今でも利害誘導型が幅を利かせています。企業内の不当労働行為や、大企業の支持候補の応援をしない下請けは仕事をやらない、というのも日常茶飯事なのです。国民も選挙等はそういうものだと思っているから、なかなか政策で候補者を選ぼうとしないわけです。憲法改定の主体者である「国民」は、憲法が縛る権力者に対峙する存在ですが、国民の中も一様ではありません。

5.その他、両方の案に共通して残る問題が多数あります。

 最大の問題は、どちらも改定について、条項の一括承認を前提としている点です。憲法改定に関する各種世論調査でも、この点をあいまいにしたまま、環境権の新設には賛成だが9条改定には反対が多い、などという結果を平気で公表しているのは重大なミスリードだと思います。現在の投票案では、そのような部分的意思表明はできません。

 改定を想定しているといっても、あくまで個々の文言の部分的な改定にとどまらなくてはなりません。国民主権、基本的人権の尊重、平和主義の三原則およびそれらのさらにベースとなる立憲主義を変更することは認められません。それは、憲法前文が前半で国民主権を「人類普遍の法則」であり「これに反する一切の憲法、法令、及び詔勅を排除する」と宣言していること、後半で、平和主義についてその「政治道徳の法則は、普遍的なもの」と述べていることからも導かれます。憲法前文をとにかく直してしまおうという自民党憲法草案などは「改定」ではなく、クーデターの範疇に踏み込むものといえます。

 ですから、国民に賛成反対を問う場合も、個々の変更内容ごとに問わなくてはならず、そのことが法案に明記されていなければなりません。同時に、その変更が国民主権、基本的人権の尊重、平和主義の三原則、及び立憲主義に反していないかを有権者が判断できるように、全有権者がそれらの概念に勉強できる機会の保証も明記されるべきだと思います。「政党等は、日本放送協会及び一般放送事業者のラジオ放送又はテレビジョン放送の放送設備により、憲法改正案に対する意見を無料で放送することができる」とありますが、政党以外の市民団体や個人の発言の場も保証されなければなりません。

 そういったもろもろのことを考えると、「憲法改正を発議した日から起算して60日以後180日以内」という投票期間の設定は短すぎます。(与党案は最初はなんと30日以上90日以内だった!)政府はこの規定の中でもできるだけ短くしようとするでしょうから、今の日本国民の政治的成熟度では無理な設定です。何日間ならOKというのは私は判断できませんが、少なくとも180日以上とすべきだと思います。

 「形式的な法整備ではなく、憲法9条を変え日本を海外で戦争する国につくり替える目的につながっている」という共産党志位委員長の指摘は、自民党や民主党の一部などの議員で構成される「憲法調査推進議員連盟」が、2001年11月16日に作成した「憲法改正国民投票法案」及び「国会法の一部を改正する法律案」の必要性について、「憲法改正の必要が生じた場合に迅速に対応しうるための法整備」であり「いわゆる政治的な義務という性格のもの」と述べていることからも推察できるでしょう。

(Green Day "American Idiot"を聴きながら)

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2006/05/21

朗読が解放する十代のこころ

 今日朝のNHKのBSニュースで、"URBAN WORD NYC"という取組の地区予選の場面を偶然見ました。

 "URBAN WORD NYC"は、ニューヨークで1999年に教師と作家の協力で始められ、以来、何千人ものティーンエイジャーに自由で、安全で、無検閲で、朗読の機会を提供し続けています。運営者は、ティーンエイジャーが自分自身のために自分の思うことを発言できなければならず、それによって批判的精神を磨き、イマジネーション豊かで正直な文章を書けるようになると信じてこの取組を続けています。

 ニュースの最初を見逃したので、地区の名前や詳細な予選の仕組みは分かりませんでしたが、数十人の若者がひとりひとりステージに立ち、自作の詩を(原稿を持たずに)披露します。報道では、社会的不満を持つ黒人やヒスパニッシュ系の若者が多く参加しているようだとコメントしていました。それは詩というより半分アジテーションのような、自分史の告白のようなものですが、借り物の言葉はありません。

 「カトリーナのときも助けに来てくれない。ブッシュの頭は戦争のことばかり」と怒りをぶちまける黒人の少年がいれば、虐待した父親にもう期待はしないけれど許そうと語る白人の少年もいました。そして、スカーフを被ったパレスチナ人?の少女タラバニさんは、パレスチナの現状について「生きるのが地獄のような毎日で憎しみだけが支えになっている。憎しみの連鎖を断たなければならない」と心臓の鼓動が伝わってくるような熱意で訴えました。
 そのひとつひとつに会場で聞いているティーンエイジャーが割れんばかりの共感の拍手を送り、スタンディング・オベーションをしていました。聴いている若者の表情にも胸が熱くなりました。

 運動のホームページ
 http://www.urbanwordnyc.org/

を見ると、19歳のSevan Aydinianは、「私は朗読の世界について何も知りませんでした。でも私が朗読で優勝したとき私に新しい世界が開かれました。それまで見知らぬ関係だった人々をまるで家族のように感じるようになったのです」と参加した喜びを表現しています。また、ある高校の教師は「始めて会う人も含めて大勢の人が居る大きな部屋に私の生徒たちが立っているのを見て、十代の詩人たちは私たち教師が4年間で彼らに対してなしえなかった何かをやり遂げているのを感じました。私たちは、生徒たちが彼らの創造的な贈り物を分け合っているのを見、私たちの学校には多様な才能の持ち主がいることに驚いたのです。そう、それがあることは知っていても実際に目にしたことのなかったような」と生徒たちの言葉の力に打たれた思いを寄せています。

 米国の教育現場の問題は、日本よりもずっと深刻な状態が続いていました。ブッシュ政権になってからは、それまで教育にかけられていた予算も削減され、アレン・ネルソンさんが私塾を開いているカンデムという都市では、暴力や麻薬売買などが頻繁に起こり、学校には教科書すらない状態だといいます。

 そうした状況をむしろ兵隊を確保するチャンスと軍隊がつけこむ一方で、子どもたちの心を解放し、それを通して彼らを人間的に強くしようとする努力が続けられていることにこころからリスペクトを捧げたいと思います。

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「9条守ろう! ブロガーズ・リンク」に参加します

Banner9_1  「9条守ろう! ブロガーズ・リンク」
 http://our.sakura.ne.jp/9/

の趣旨に賛同し、参加させていただきます。

 9条は時代遅れ、などといわれますが、国民の多くは日本国憲法そのものを読んだことがないという現状です。その値打ちを隠したまま政府主導で改憲し、日本国民にも、世界諸国民にも不幸な義務を負わせるなどというのは、近代立憲主義に反する行為です。

 微力ながら、日本国憲法の値打ちを自分の言葉で広げる努力をしていきます。

 

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2006/05/20

ネルソンさんが語る「9条の力」

「世界平和は米国がつくるものではない。国連に任せておけばいいものでもない。また、ヨーロッパから起こるというものでもない。ここに集まった皆さんの中からはじめるものだと思います」(アレン・ネルソン、2006/5/20)

 今日は、アレン・ネルソンさんを福井に迎えた講演会「子供達を戦場に送りたくない」(福井たんぽぽの会、福井弁護士9条の会準備会共催)が開かれました。私は、妻と中二の娘と、それからちょっと難しいかなと思いましたが小一の息子も連れて聴きに行きました。

 アレン・ネルソンさんについて改めてご説明する必要はないでしょう。以下の本は家族みんなで読みました。

 ■「ネルソンさん、あなたは人を殺しましたか?」(2003、講談社)
  http://tinyurl.com/jjaz4

 ネルソンさんは"REAL WAR"という言葉を何度も使います。美しい音楽の下でヒーローが正々堂々と敵を倒す"MOVIE"の世界で描かれる戦争との対比を強調するためです。メディアのおかげで私たちは兵士の役割を誤解している、とネルソンさんは言います。兵士はソーシャル・ワーカーではない。老人や子どもを救け、病院や学校を建てるのが兵士の目的ではない。兵士の第一の任務は、"KILL"に他ならないのだ、と。
 そのために、海兵隊員は敵を人間と思わず確実に殺害する暴力性を徹底的にたたきこまれます。沖縄に駐留している海兵隊の若者は毎日そうした訓練を受けているため、市街へ出掛けるときだけ暴力性を基地に置いていくという風にはいかない。記録されていないものも含めて沖縄で米兵が起こし続ける犯罪は、軍隊の目指す人間像の避けられない帰結ということなのでしょう。

 しかし、ネルソンさんは、沖縄や海外の米軍基地、アフガンやイラクに派遣される兵士のほとんどが、貧しい労働者の子ども、あるいはスラム街出身で、生活のために選択の余地なく兵役を選んだ若者であることを忘れないでほしい、と訴えました。対テロ戦争を遂行するブッシュ大統領の娘が戦場に駆り出されることはない。イラク攻撃が始まったとき小泉首相はすぐに支持を表明したが、彼の息子がイラクに行くことはない。憲法9条をなくそうと画策している国会議員の子どもや孫が前線に送られることはないのです。どんな戦争でも貧しいものどうしが殺し合いをさせられている、と語りました。これは、マイケル・ムーア監督の「華氏911」でも、いちばん強調されていた点ですね。
 ネルソンさんは、本国では、アメリカで最も貧しい国であるカンデムという都市に住んでいます、ここでは、暴力や麻薬売買などが頻繁に起こり、学校には教科書すらない状態だといいます。これにつけこんで学校では軍隊のプログラムが組み込まれており、兵士たちの重要な供給源となっています。親たちも麻薬犯罪に巻き込まれるよりはマシ、という理由でこのプログラムを消極的に支持しています。ネルソンさんは、貧しい子どもたちが金持ちの子どもに負けない学力をつけてほしいと、この街で私塾を開いています。

 世界最強の軍事力と経済力を維持しながら、ニューヨークでは、子どもを含め毎日3万人を超えるホームレスの人たちがシェルターや街頭で寝ている、それに政府は金を使わない、それがアメリカの現実です。また、ネルソンさんは初めてヒロシマ・ナガサキを訪れとき、米国の学校で教えられていた原爆の知識がまったくデタラメだったこと、アメリカこそテロリストの王であることを知ったと語りました。何の告知もなく、逃げる間も与えず民間人が暮らす街に原爆を投下した行為は、ブッシュ大統領が非難し利用する911テロと同質のものだと批判しました。

 ネルソンさんにとって、戦場のもっともリアルな記憶のひとつは、死体から発する匂いだそうです。今でもそれを思い出すと吐き気がするといいます。戦争映画でも、単にヒーローものでない作品はあるが、この匂いが伝えられない限り、観客に"REAL WAR"は伝わらない。観客はキャンディーやジュースをほうばりながら戦場の場面を見ているが、もしこの匂いを再現する映画ができれば、そんな余裕があるはずはなく、戦争なんかもう嫌だと誰もが思うに違いない、と、私たちの想像を超える戦場の酷さを語りました。

 そのネルソンさんは、日本国憲法9条についてかたるとき "Power of Article 9"というフレーズを何度も使いました。政治家は次々に新しい脅威をあおって国民を煽り、敵は同じ人間ではない(イラクの戦争では、イラク人のことを米軍は「砂漠の猿」と蔑称したそうです)と信じ込ませ、軍備を拡張するが、軍備で安全は確保できない。9条こそが、安全を確保する力(POWER)を持っている、と繰り返しました。戦争の残酷さ、空しさを知っているネルソンさんの口から出る"Power of Article 9"という言葉は力強く、勇気付けられるものでした。

 息子は途中で退屈しながらも、最後まで聴き通し、アンケートには「せんそうはこわいと思いました。ぼくは人を殺したくありません、(…云々)」の感想と、ネルソンさんの似顔絵をかいていました。

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2006/05/17

「野が泣く」 韓国平澤の農民の思いに心を重ねよう

 在韓米軍再編で韓国最大級の米軍拠点になる平澤(ピョンタク)基地拡張に反対する農民や市民グループに対し、韓国国防部は5月4日、計1万6000人の武装した軍や警察を投入し、約400人?を連行した上、予定地の周囲約29キロに鉄条網を設置しました。

 この様子は、日本のTVでも放映されました。完全武装した正規軍に対しその十分の一に満たない人数で、しかも武器といえば竹槍だけで立ち向かい次々と血を流し倒れていく農民の姿は、正視に耐えないような映像でした。負担経費の明細も確認しないまま2+2会談で勝手に「合意」が行われた日本の私達にとっても、これは他人事ではありません。明日はわが身と想像できる点でも、戦慄する映像でした。

 しかし、こうした衝突の経緯はほとんど知られていませんし、理由はともあれ、正規軍が先制武力行使のあり得ない自国の国民を武器で組織的に傷つけるということに対し、人間としてまず悲しみ、怒るという感性が希薄になっている気がします。

 平澤では、農民を支援し、朝鮮半島における武力強化反対と、国家の命令よりも正当な住民の権利を守るため、芸術家が結集を始めました。3年前から平澤の大秋里で始まった文藝活動は、この冬「野が泣く」と名づけられた明確なプログラムとして企画され、文学、美術、写真、書芸、映画、漫画、公演などの芸術分野から様々な芸術家たちが参加するようになりました。そして、「平和芸術村」と呼ぶにふさわしくなるようすべての野が見下ろせる小さい尾根の上に「平和公園」を造りました。

 アメリカにとって、日本も韓国も、米資本の世界支配のための地域拠点でしかありません。国家存立の基盤である食糧主権も、労働者の権利確保も、文化的独自性も主張できなくなっています。平澤の土地強制収用(しかも、この農民達は、過去日本軍、米軍によって2度も土地を奪われ、そのたびに荒れた土地を開墾してきたのです)は、まさにアメリカとそれに正義なく追従する人々の暴力を象徴するできごとです。

 この件は、韓国のメディアでも、農民の抵抗に共感する記事はあまり多くないのではないでしょうか。日韓の壁を越えた市民の支援が必要です。

 きわめて短期間ですが、16日から、日本国内の市民グループが、以下のように連名で平澤事態への抗議と住民激励の共同声明への賛同を呼びかけています。私も賛同しました。
 この問題に関心のある方は、ぜひご協力ください。

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■韓国・平澤事態への抗議と住民激励の共同声明 (締切5月20日)
 呼びかけは「日韓民衆連帯全国ネットワーク」など(本文参照)
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【暴力的土地強制収用に抗議し、平和と生活権のための平澤住民の闘いを支持する共同声明】

 韓国国防部は5月4日、京畿道平澤市彭城邑大秋里(キョンギド・ピョンテクシ・ペンソンウプ・テチュリ)に1個連隊および野戦工兵団など3000余人の軍隊と、1万2000人余の警察部隊を突入させ、地元自治体との意見調整や土地所有者である農民の合意がないまま米軍基地移転・拡張予定地の周囲29キロに対して鉄条網を設置し、また大秋(テチュ)分校の強制撤去を強行しました。
 この過程で抵抗する農民・支援者らとの間で激しい衝突が起きました。軍・警察は農民たちが汗水を流して収穫した農作物を踏みにじり、ビニールハウスを引きちぎり、抵抗する農民・支援者には容赦なく盾と棍棒を振り下ろしました。この過程で、350人以上の人々が警察に連行され、また100人以上の人々が負傷する事態が引き起こされています。私たちは、韓国政府・国防部のこの暴挙に強く抗議します。
 いま米国政府は、世界的規模で進めている米軍再配置計画の一環として駐韓米軍再配置を進め、漢江以南へ集約化を図るとともに、「戦略的柔軟性」の名のもとで対北朝鮮先制攻撃態勢の強化と朝鮮半島以外の地域にも戦力投入を可能とする動きを強めています。その柱の一つとして平澤への米軍基地移転・拡張が位置づけられてきました。
 私たちは、生命の糧である農民の土地を奪い、朝鮮半島の分断と戦争の脅威の根源である駐韓米軍基地の強化・固定化の動きに反対して闘う韓国の人々に、心から連帯の挨拶を送ります。
 現在、日本でも日米安全保障協議委員会の「最終報告(ロードマップ)」で合意、日米軍事同盟の再編・強化のための沖縄・辺野古沿岸への米軍基地新設、座間への米陸軍軍団司令部の移転が決まりました。これによって日本全国の一層の米軍拠点化、さらに自衛隊との一体化に踏み込もうとしています。この日米同盟の強引な推進に対して反対運動が各地で広がっています。
 米軍基地の再編・強化に反対する沖縄・日本の民衆と韓国の民衆の闘いは、いまや国境を越えた一つの闘いです。東北アジアの平和の実現、米軍基地のない沖縄・日本、韓国をめざし、連帯して共に頑張りましょう。

2006年5月20日

【呼びかけ】日韓民衆連帯全国ネットワーク、新しい反安保行動をつくる実行委員会X、「戦争と女性への暴力」日本ネットワーク(VAWW-NETジャパン)、基地はいらない!女たちの全国ネット、許すな!憲法改悪・市民連絡会、在日韓国民主統一連合(順不同)
    賛同送付先    FAX 03-5684-0194    Eメール nrc07479@nifty.com

……………………………………………………………………………
賛同をお願いします。連名にして韓国側に送付します。【締切り5/20】

氏名(団体名)
連絡先
電話
FAX
Eメール
一言
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 以下のサイトでも生々しいたたかいの映像が見られます。
 http://cafe.daum.net/hwangsaewool

 また、同サイトの日韓連帯ページ「韓日連帯のマダン」の以下ページ
 http://cafe.daum.net/hwangsaewool

では、文化的たたかいの経過が見られます。

 日本語では、下記きよこさんのサイト「韓国平澤アルバム」で、破壊される平和公園の写真が紹介されています。

 http://www.ne.jp/asahi/cyura/kiyoko/

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平和こそ「母の日」のいちばんの贈り物

 母の日はもう終わりましたが、コードピンクの創始者のひとりメディア・ベンジャミンが今年の母の日を前にして発表したすばらしい声明をご紹介しましょう。

 現在多くの国で祝われる母の日は、アメリカ・フィラデルフィアの女性アナ・ジャーヴィスが亡くなった母親を悼んで始めたのが起源というのが定説ですが、実はアナのアイディアのバックボーンとなる運動を30年以上前の1872年に始めた女性がいました。著述家で、毎年1回の「平和のための母親たちの日」を提唱し、ボストンで「母の日集会」を組織したジュリア・ウォード・ハウがその人です。

(以下、どすのメッキーによる仮訳)
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 母の日の平和の贈り物
 http://www.commondreams.org/views06/0512-32.htm
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 母の日は決してホールマークあるいは1-800-FLOWERS、Sees Candiesによって発明されたのではありません。(注1)これは間違いありません。まったく、1870年に母の日をはじめたとされるジュリア・ウォード・ハウは、その無神経な商業主義にがっかりするでしょう。ジュリアがまだ生きていたら、彼女はたぶん薔薇やチョコレートの代わりに、彼女とともに反戦に決起するよう子どもたちに教えたでしょう。そうです。ジュリア・ウォード・ハウは反戦運動家でした。

 ジュリアは、リパブリック賛歌を作詞したこと、奴隷制度に反対したことで有名ですが、彼女は、南北戦争(注2)中の殺戮と損害、それに続く経済荒廃に戦慄しました。さらに、ドイツの軍事力と帝国の謀略(注3)の前兆とともに、1870年の独仏戦争(注4)の勃発にも胸がつぶれる思いをしました。彼女は詩的才能を活かして戦争に反対する宣言を書きました。この宣言が母の日を生んだのです。

 「殺戮があふれ、私たちの夫は我が家に戻って抱きしめられ拍手をうけることはないでしょう」彼女は書きました。「私たちから息子を奪い、私たちができる限り彼らに教えてきた思いやり、慈悲、忍耐のすべてを忘れさせるべきではありません。私たち、ある国の女性はもう一方の国の息子たちをも気遣うため、自分の息子たちが彼らを傷つけるよう訓練されるのを許すことができないでしょう。」では、彼女の方法とは何だったのでしょうか。それは、「異なる国同士の協力、国際問題の円満な解決、平和への大きくひろい関心を促すために」女性が結集するべきだというものです。

 今年の母の日を迎える週末、5月13日と14日、コードピンクはジュリアの最初の宣言の精神の下、ワシントンDCで集会を組織しています。私たちの国と世界が危機にあり、私たち女性が役割を果たさなければならないことを理解し、私たちはホワイトハウス前で24時間の監視行動に集まるでしょう。

 私たちは、イラクの占領を終わらせ、イランに対する攻撃をやめるよう要求するでしょう。私たちは、時間を費やして街全体の問題の解決をどうやって促進するか方策を練るでしょう。国家警備隊を帰還させる命令、戦争への資金を削減する立法、不満を持つ兵士を支援するキャンペーン、次の戦争をとめるための地球規模の努力、そして、イラク人、イラン人との人間同士の結びつき。

 週末私たちは、歴史的な反戦劇Lysistrata(注5)、イブニング・コンサート、反戦映画の上演、ローラ・ブッシュへ手紙を書くこと、ピンク・パジャマ・パーティ、日曜日の朝の宗派を超えた礼拝、ウォルター・リード病院を訪問して負傷した兵士の母親や妻に薔薇を届けることも計画しています。

 この母の日、私たちはジュリア・ウォード・ハウの嘆願を繰り返すでしょう。「武器を捨ててください。人殺しの剣は正義とは釣り合わないのです。」

 ベッドの飾りや朝食の代わりに、私たちは私たちの母親、そして世界中の母親に大きな贈り物を贈りたい。私たちのエネルギー、情熱、コミットメント、そして暴力を止めて、戦争のない世界を作りあげる決意を。

 2006年5月12日(金)
 メディア・ベンジャミン

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(仮訳おわり)

■訳注

注1:いずれも母の日がかきいれどきのカード屋、花屋、お菓子屋。この件は、福島民友新聞社の下記記事が詳しい。
   http://tinyurl.com/hy4c4
1914年、米議会は5月の第2日曜日を母の日とする決議を採択したが、これは花き業界とメッセージ・カード業界が便乗商法をすすめるための陳情が基になっていたため、「母の日」からは「平和のための」が外される結果になった。資本主義は多くの価値ある伝統を空虚なビジネスチャンスに貶めてしまう。そういう姿勢は今の日本では非難されるとは限らないばかりかむしろ奨励される。でも、その行き着く先は、宮沢賢治が「フランドン農学校の豚」でかいた「ひとのからだを升ではかる」世界ではないだろうか。

注2:1861年 - 1865年

注3:プロイセンの宰相ビスマルクが、ヴィルヘルム1世の電報をフランスがプロイセンを侮辱したように改竄してフランス世論を煽り、フランスに宣戦布告させたことを指すと思わる。ただし、謀略が契機だから戦争が不当だという狭い意味にとらえないようにお願いしたい。ジュリアの思想は、もっと根本的で普遍的なものだ。念のため。

注4:1870年 - 1871年

注5:反戦喜劇。下記参照
   http://en.wikipedia.org/wiki/Lysistrata

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 以下のサイトも是非見てください。ジュリアの生い立ちとリパブリック賛歌誕生の歴史がドラマチックに紹介されています。

■リパブリック讃歌はこうして生まれた~ある女性作家の突然のひらめき
(ドナドナ研究室)
 http://tinyurl.com/jxprv

 ホワイトハウス前の行動に参加した女優のスーザン・サランドンさんは、ブッシュ大統領の妻で、二人の娘の母親であるローラさんに向け、「『(子どもが)無残な姿で戻ってきた母親の気持ちを想像してごらんなさい。クラスター爆弾や白りん弾で子どもを奪われるイラクの母親のことを想像してみなさい。苦しむ母親をうみ出さないために、この無意味な戦争をやめさせなさい』」と読み上げ」(赤旗16日)たそうです。

■コードピンクの行動の様子は、以下のページの美しい写真とブログで見られます。
 http://tinyurl.com/zbtmm

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2006/05/13

優勝した国と準優勝した国

 WBCのことを話題に出したついでに、せっかくだから付け加えておこう。

 合意もなく追加興行的に始まった大会というのが私のWBCに対する印象だ。もともと野球はサッカーなどに比べ世界的な広がりが狭いから、よほど意義付けをしっかりしないと盛り上がりを欠いてしまう。スポーツを通じた交流や野球の普及という目的がしっかりしているなら、当初キューバの参加が拒否されたり、不参加のメジャーリーガーがこうも多くなったりはしなかっただろう。

 日本は、スポーツをナショナリズムと結びつけたがるし、オリンピックで期待通りの成果をあげられないまま野球が競技種目から外されるおそれも高くなる中で、無理をおして参加した。各チームの力に大きな差はなくキューバや韓国、あるいはプエルトリコが優勝しても不自然でなかったが、巡り合わせで日本が勝った。そういうことだろう。
 がんばった人を何でも抱え込みたがる小泉政権は、早速選手を英雄にまつりあげることで、「彼らの不屈の精神を見習って改革を前進させよう」と、自らの政治宣伝に利用した。WBCでの日本人選手の健闘と、小泉似非改革の推進とは、当然何の関係もない。奇しくも卒業式と入学式のシーズンに日の丸、日の丸、と連呼したイチローは最上級に持ち上げられた。

 野球というすばらしいスポーツを、政治や歪んだ思惑と切り離して楽しませてほしい。私は声を大にして言いたい。

 一方、天晴れだったのは準優勝のキューバだ。ゲバ評に反して優勝しなかったからふがいないなどとは言わず、国民的スポーツで米国の政治的壁に風穴を開けた選手たちを国民は大歓声で迎えた。カストロ議長も議会の演説で、選手の健闘にこう報いた。「大会は大成功だった。この収益金をカトリーナ被災者の支援に喜んで提供しようじゃあないか」議場から拍手がわき起こる。正面に掲げられた大きなゲバラの顔が笑ったように見えた。

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2006/05/12

カリスマにならない故の偉大さ 松井選手骨折の報に接して

 スターにも2種類あって、自らカリスマになりたがる人とその反対の人がいる。私は後者が好きだ。
 野球では、松井秀喜と野茂英雄が好きな選手だ。卓越した能力だけでなく、決して言い訳しないこと、個人のアピールよりチームの勝利にこだわること、野球というスポーツを文化の一つに育てたいと努力していること、など良く似ている。
 とくに、地元に近いこともあり、松井は家族にとって特別な選手だ。息子はキャッチボールをするとき必ずヤンキースの帽子をかぶり、気合の乗ったときには55番のTシャツを着る。松井が活躍をした日は、仕事から帰ってくるとまずその話をしていた。

 今日、松井が骨折した事をネットのニュースで聞いた時は、悪夢を見ているような気持ちだった。松井が誇りにしている連続試合出場記録が途切れた事自体は、これまでの記録でも十分な数字だし、正直言って、私はあまり気にしていない。それより、WBCを断ってまで今年に賭け、おそらくまた上り調子になる夏を目前にして離脱したのが残念でならない。
 「松井は簡単に代わりがいるような選手ではない。もう人が怪我をするのは見たくない」主将ジーターのコメントは沈痛だった。ジーターが客席に飛び込んでファウルフライを捕り、頭を数針縫ったのは2年前だっただろうか。誰よりも献身的なプレーを続けてきた彼には、野球の怖さがよく分かっている。地道に体を鍛え、節制をし、毎シーズンに万全の準備をしてきた松井でも、怪我の可能性はゼロではない。訳の分からないWBCではなく、宿敵との公式戦で負傷したのがせめてもだ。

 松井は、自分だけが連続出場できれば良いと考えていたわけではない。メジャーリーガーが目の覚めるようなプレーができるのは、個人個人の力量もさることながら、野球場の設計等にもよっている。人工芝では足を痛める可能性が高い、外野フェンスで思い切ったプレーをするには、メジャーのスタジアムのような緩衝材が必要だ、そうした提案を松井は日本で幾度となくしてきたが、取り上げられなかった。日本のプロ野球選手は、オーナーにとって自社のロゴをつけた宣伝塔に過ぎない。コストばかりに目が行き、怪我をしたらいくらでも代わりがいると考えている国の野球は、文化ではない。労組の主張に対する対応にもそれが見て取れる。松井の負傷を悼むヤンキースナインやトーリ監督の言葉を聴くと、松井がいかに必要とされていたかだけではなく、一人一人の選手が人間として大切にされ、その結果人間として成熟しているかが分かる。

 松井が巨人を出てメジャーに入ったこと、そしてWBCを辞退したことは、今でも正解だと思う。日本が運良く優勝できたことで(もちろん個々の選手の努力を軽視するものではない)政治家まで注目し、選手達は英雄になった。王監督も、メジャーと日本のプロ野球との差は想像していたより少ないと語った。果たしてそうだろうか。仮に初めての短期決戦で互角に戦えたとしても、アメリカのベースボールと日本の野球(これは日本ではスポーツの頂点でもある)の懐の深さにはいまだ大きな差がある。文化的距離なら、サッカーの方がずっと世界レベルに近いと思う。
 最初はWBCに関心の無かったイチローが、国の威信だ、日の丸だ、と叫び出し、相手国に挑発的な言動までするほど変身したのが、この国では好意的に捉えられているが、私はイチローのショーマンシップとこの国の歪んだナショナリズムが同調したにすぎないと感じる。もとより、プロスポーツが国別対抗戦より格が下だと考えるのは不当である。ハンディを持った人の野球観戦にも意を尽くしていたといわれる優しい松井が日の丸を胸につけてプレーする場面など、私は見たくなかった。

 現時点で、骨折はしたが靱帯に大きなダメージはないと報道されるものの、あれほどの怪我だ。安易に考える事はできない。左打者にとって左手の握力の回復がどれほど難しいのか素人の私には分からない。ただ、完治するまで焦らずじゅうぶん養生して欲しいと祈るばかりだ。

 どれほどの実績を持ってしても、実力本位の世界でこれからのブランクは小さくはない。でも、左手首が完全に裏返り補給したボールをこぼした後でも、右手で懸命にセカンドに返球したプロフェッショナル魂は、ニューヨークや日本のファンの目に焼きついている。
 再びフィールドでゴジラの雄たけびを見られる日を、何日でも信じて待っていよう。

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2006/05/07

9条と99条を守らせる会

 今日「憲法九条を考える県民のつどい」が約450人の参加で行われました。

 企画の目玉、早稲田大学教授水島朝穂さん

 http://www.asaho.com/

の講演は、とても勉強になりました。以下は、講演を聴いた私のまとめです。誤解があれば責任は私にあります。

 水島さんはあえて9条自体の話を最小限にして、そもそも憲法とは何なのか、ということをいろんな面から分かり易く説明されました。

 とくに、憲法は国民皆んなで護るものではなく、権力というものは、誰が権力の座についても、国民生活に介入し暴走する傾向をもうという前提に立って、国家に守らせるための規範である、ということを繰り返し強調していました。(ジェファーソンの言葉「自由な政府は信頼ではなく猜疑にもとづいて建設される」)

 かつて革新自治体が掲げた「憲法をくらしに活かそう」というスローガンは、それ自身はいいことなのだが、それを各自治体の権力者である知事が呼びかけたことから、誤解が生まれた。現在の「改憲派」は、権力に対する緊張感の低下につけこんで、本来権力に対する自由を目的とする基本的人権を、隣人との人間関係のようなもの(プライバシー権、環境権等)に変質させてしまった。読売の新憲法草案が、公務員の憲法擁護義務を定めた99条を削除し、かわりに国民に対する憲法遵守義務を前文末尾に明記したことに、彼らの狙いが端的にあらわれている、と。

 水島さんが以前訪れた沖縄・読谷村の村長室の壁のひとつには9条の条文の垂れ幕が掲げられており、反対の壁には99条の垂れ幕がかかっていたそうです。これが、憲法をよく理解している権力者の姿なのでしょう。そこで、水島さんは、「9条を(私達が)護ろうという」呼びかけから、「9条と99条を政府(や、それに続く各自治体の権力)に護らせよう」に変えることを提案されており、共感しました。

 いわゆる「護憲派」も「改憲派」も憲法が権力を縛るためのもの、という立憲主義の考えを知らないまま主張している場合が多いというのは、昨日書いたとおり、私も強く感じます。いきなり9条をどうする、というところで対立するのではなく、立憲主義の考え方から自分達の生活を率直に議論しあえば、今政府や民主党の一部が進めているような、拙速で権力側の枷を緩めるような改定には賛成できない、という点で一致できる可能性は大きい、という話は説得力がありました。

 フジテレビが昨年1月軽井沢で水島さん、慶応大学の小林節教授をパネラーに一般市民6人を集めて「意見が一致するまで帰れない」というルールで行った合宿の結果がそのことを雄弁に示しています。

 その中で、読売や自民党の改憲試案作成で中心的役割を果たしてきた慶応大学の小林節教授も、政府主導のムード的な改憲には反対の立場を表明するに至り、現職自衛官などを含む参加した一般市民6人も14時間の議論の末、今回提出される改憲案には保留することで一致したそうです。

 詳しくは下記をご覧下さい。

 http://www.asaho.com/jpn/bkno/2005/0418.html

 同じように、今の「改憲」に立憲主義の立場から疑問を呈する発言が今年沖縄の読谷村で行われたシンポジウムでも大きく取り上げられました。以下の沖縄タイムスの記事をご覧下さい。

 http://www.okinawatimes.co.jp/day/200603161300_03.html

 水島さんは、明治10年代、日本が近代憲法を制定するにあたり、40もの草案があったことにも触れ、高知の思想家植木枝盛の作成した「東洋大日本国国憲案」には、その45条に「日本ノ人民ハ何等ノ罪アリト雖モ生命ヲ奪ハサルヘシ」と、現憲法でも規定していない死刑の廃止をはじめ、近代市民革命期の政治思想が随所に盛り込まれていたことが紹介されました。そして、現憲法は英文のいわゆるマッカーサー草案が基になっているとはいえ、マッカーサー草案が手本にしたのは、日本人研究者の集まり憲法研究会が日本語でかいた文章であり、さらにそこには、120年以上前の植木枝盛の「東洋大日本国国憲案」の自由民権思想が脈々と流れている、これを無視して現憲法を押し付けだと蔑視するのは、歴史認識の主体性も先人への敬意も欠くものだ、という家永三郎さんの主張は、まさに溜飲を下げるものでした。

 もうひとつ、私が認識を新たにしたのは、広島長崎への原爆投下は、第二次大戦の趨勢が決まり、戦争を違法とする考えを徹底するためにつくられたあの国連憲章ができた後のできごとである、ということです。国連憲章は、参加した連合国ですでに合意されていたにもかかわらず原爆投下という無差別虐殺を止める事ができなかった。為政者や科学者のその痛切な反省と危機感が、日本国憲法により徹底した無条件の戦力放棄を求めた、という事実を、対テロ戦争のインチキな論理の前に軽視する事はできません。

 憲法について、みんなで考える前に、まずひとりひとりが考えよう、という方法論は、これから私の座右の銘にしたいと思いました。

 たいへん中身の濃い講演でしたが、「簡潔に言うと」からが長い、と定評(?)の水島さんらしく、持ち時間を20分近くオーバーしたのはご愛嬌というところでしょう。

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2006/05/06

「改憲」を考える3つの視点

 今年は珍しく連休中の出勤が無かったが、なんだかんだで日々は過ぎてしまった。

 明日は、私も呼びかけ人になっている地元の9条の会の企画がある。その前に自分が大事にする3点ごくかんたんに整理しておく。詳細は追ってここでも書いていく積りだが、いずれも大事であるのに、見過ごされているか誤解されていると思う。

 ひとつ目は、憲法であれ、何であれ、公的な規制力をもつ文章を変更する際、それまで人類が多大な犠牲を払って獲得した思想を覆すことはできない、ということだ。たとえば、現代において、基本的人権を否定するような法律を新たに成立させることはできない。憲法自体も、そもそも何のためにどのような役割を果たすべく定められるのか、といった考え方は基本的に確立しており、どんなにその国の独自性を主張してみようが、それを覆すような憲法に作り変えることは認められない。日本国憲法だけでなく、多くの近代憲法が依拠している「立憲主義」、すなわち、憲法は国家が国民に対して要求を書き連ねるものではなく、国家の暴走を防ぐために、国民が国家を監視規制する根拠として存在するという原理がそれにあたる。「改憲」は一般的にいけないものではない。しかし、政府が主導して、しかも、国民に新たな規制や義務を課すような現在の「改憲」の進め方が、立憲主義に反していることは、いくら強調してもしすぎる事は無い。

 二つ目として、憲法9条をいわゆる「足枷」として捕らえがちだが、それは誤りである。軍隊を海外に派兵する際の「足枷」という考え方は、日本国憲法が提唱する平和を矮小化し、9条を敵視する人々から「一国平和主義」などの非難を受ける呼び水になってしまう。日本国憲法が、たとえ押し付けられたものであったとしても、それが長い戦争で日本国民が甚大な被害を被り、それ以上の被害を他国民に与えた誠実な反省から生まれたものであることに違いは無い。前文では、「全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有する」のであって、それを承認することが「自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると」うたっている。すなわち、日本国憲法のめざす平和主義は、戦争に参加しないというだけの消去法的な平和ではなく、「全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する」という壮大な事業を成し遂げるという積極的な平和であり、戦争や軍隊は、その達成のためにぜひとも乗り越えなければならない障壁としてとらえているのだ。9条は「足枷」どころか、平和事業を行うための自由の翼である。かつてイラクで、武装した自衛隊より丸腰のNGOがどれだけ多くのことを成し遂げたかを見るがいい。彼らの丸腰は臆病ではなく勇気の証である。

 三つ目は、9条を護れという前に、憲法を読んだ事の無い国民が多数のこの国で、教条的に護憲を訴える事は、かえって支持をなくすのではないか、ということだ。笠木透さんの歌にもあるが、日本国憲法があるから基本的人権があるのではなく、基本的人権があるから日本国憲法があるのだ。日本国憲法の無い英国で今も10万人規模の反戦デモが可能なのはなぜか。米国のイラク侵略に反対する時に、憲法9条があるから、と言えば何か語った気になってしまうのではダメなのだ。仮に9条が無くても、ひとりひとりがこの戦争に協力する事は間違っている、米軍のために市民の生活が脅かされるのは間違っている、と自分の言葉で語れることが何より重要なのだ、と思う。9条は護るものではなく、そこからインスピレーションを得て活かすものでなくてはならない。

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2006/05/03

今日 私は バオバブの木を植える

「地球が明日滅びようとも、 君は 今日林檎の木を植える」

 これは、16世紀ドイツで起こった宗教改革の中心的人物マルティン・ルターあるいは、公民権運動に生涯を捧げたキング牧師の言葉といわれています。(日本では開高健が好きな言葉として有名ですが、キャプテン・ハーロックも似たような事言ってたなあ)

 林檎というのは、宮沢賢治も大好きで、とくにその香りが正しいもの、清潔なもの、穏やかなものの象徴として使われます。

 もう20年以上前の今日、名古屋鶴舞の公会堂で行われた憲法記念集会で、この言葉をタイトルにした憲法劇が初演されました。中曽根内閣が日本列島の不沈空母化を進めていたころです。あの時代既に改憲が現実のスケジュールとなる相当な危機感の下で、わたしたちひとりひとりが林檎の木を植えようと訴えたのです。

 それからさらに20年以上がたちましたが、9条は持ちこたえています。平和憲法は空洞化されていきました。日本は他国に銃を向ける準備はもうできているかもしれませんが、引き金は引かせませんでした。それは、この間、ひとりひとりが植えた林檎の木の力だったのだと思います。

 現実にあわせて理想を引き下げるなら林檎の木はいりません。私達は現実を目の前にしてどんなに理想が遠くても、十年二十年後大きな実をつけることを信じて苗を大地に植えるのです。

 私の家は、残念ながら林檎の木を植えるスペースはありません。でも今朝私は、小さな鉢にバオバブの種を蒔きました。「星の王子さま」に出てくるあの木です。アフリカのバオバブは成長すると幹の周りが50mを超えるビルみたいになるものもあるようですが、もしそこまで大きくなったとしても、その木は子どもか孫が引き継いでいるころでしょう。「星の王子様」では、あっという間に小さな星を占領してしまう恐ろしい木として描かれていますが、私は地面にも空にも大きく根や枝を広げた姿に宇宙を感じ、とても好きです。

 あなたも、憲法記念日に何か種を蒔きませんか?

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2006/05/02

福井県男女共同参画センターからジェンダーフリー関係図書排除

 世界日報という新聞をご存じでしょうか。

 事実上「統一協会=勝共連合」が発行する新聞です。この新聞の経緯は、以下Wikipedia記事に上手にまとめられています。↓

 http://tinyurl.com/erf3f

 こんな新聞はネットサーフィンでもめったにチェックしませんが、今日、地元でびっくりする記事を教えられました。

 福井県の生活学習館(男女共同参画センター)から、上野千鶴子さんの著書10冊をはじめとする150冊の図書が排除されたというのです。昨年11月に「一県民」の苦情を受け、一度は担当課長が「情報の提供は学習するうえで必要」と回答を出しながら今年の3月には、150冊の図書が一般の人の目に触れないように倉庫にしまわれてしまいました。

 これは、「ジェンダー」の問題に対する歪んだ見方を暴力的に押しつけられたできごとで、一地方の問題に限定できないと思います。むしろすでに他府県でも似たような事例があるかもしれません。

 同紙のジェンダーフリー特集の記事を見るとこんどの教科書検定で、ジェンダーフリーの記述が消えたと喜んでいます。昨年「つくる会」は教科書採択比率においては惨敗したものの、採択された教科書の記述では、歴史教育以外でも、こうした後退が見られます。

 さて、日本でジェンダー・フリーを攻撃している人たちの口調には、ジェンダー・フリー論者=革命=サヨク運動という単純な図式が露になっています。(まあ、そうだとしてもサヨクだからなんなんだ?ですが)

 しかし、残念ながら、ジェンダー・フリーは日本のサヨクの発明ではありません。日本のジェンダー・フリー教育で用いられるときの「ジェンダー」という言葉は、世界共通語です。今日それは、階級や民族と概念とならんで重要な視点であり、1975年を「国際女性年」とした国連はもとより、世界中で多くの機関が研究を積み重ねています。そうした事実に目を瞑り、歪んだあるいは未成熟なジェンダー観のために苦しんでいるのがサヨクだけだ、と決め付けている意識自体、非寛容で暴力的なのです。

 ネットを見回せば、ジェンダー・フリー攻撃サイトは掃いて捨てるほどありますが、それらのサイトが高い確率でいわゆる「自由主義史観」や極端な民族主義の主張を併記しています。ここに本質があろうと思います。

 こうした人たちは、ジェンダー・フリーが何か人間を無機質化するようにとらえています。しかし、真のジェンダー・フリーとは、いろんなジェンダー観、感覚をもった人が差別されずに自由に堂々と生きていける社会を実現することだと思いますから、むしろ一層豊かになっていくのですね。北欧など実践が進んでいる国の女性閣僚などはとてもチャーミングに見えます。人間は自己の性差や階級や民族の障壁を取り去って、能力を自由に開花させた時もっとも美しくなるのだと思います。

 また、ジェンダー・フリーを攻撃し、男は男らしく、女は女らしく、と言っている人たちは、「女らしい」女性を恋人として、妻として、どれだけ真剣に愛しているというのでしょう。最近行われた調査では、日本の女性の3人に1人がDV経験者であり、その多くがじっと我慢していたということが分かりました。「男らしい」男は、精神的にも肉体的にも「女らしい」女の愛し方を知らない。彼女達にとって「女らしく」という視線はどれだけ重荷になったでしょう。この我慢はやがて子どもへの虐待にも連鎖します。

 では、「男らしい」男はどうでしょう。

 「男らしく」戦場に散れとはまだ言われなくても、会社の命令には妻や子どもを犠牲にしてでも死ぬまで従い、いつも虚勢を張っているのことが求められます。そういうことにいちいち疑問を差し挟む私のような人間は「男らしく」ないと言われます。男は既得権益を守っている積りで、実は、自分も不幸に追い込んでいるのです。

 上野千鶴子さんがよく言っているように、男女平等とは、女性が今の男と同じになることではありません。父親ばかりか母親までもが会社にしがみついて子どもも社会も顧みない世の中なんてまっぴらです。

 そうではなくて、「男らしさ」を上位、「女らしさ」を下位において序列付けをする考えから解放されて、男も、女も、自分の人生を自分で選択できることが、ジェンダー・フリーの目標だと思います。それは、肉体的な差異(SEX)をむしろもっといたわれる社会になるはずです。

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